メッセージ(大谷孝志師)

大宣教命令
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年5月17日
聖書 マタイ18:1-10、16-20「大宣教命令」  大谷孝志牧師

 主イエス・キリストの父なる神、天にいます私達の父なる神がこの向島に教会を建てたのは、この地の人々に福音を伝える為です。主を信じる人々がこの地に集められ、福音を伝える為、集会を始めました。その働きにより、主を信じる人々が起こされ、バプテスマを受けました。私も若い頃に立ち会わせて頂いたことがあります。この福音宣教の働きは今も続けられています。

 今日はこの福音宣教の命令を主が発した日の事を御言葉を通して学びます。主イエスが復活した日、マグダラのマリアともう一人のマリアが墓に行きました。他の福音書では入り口の石が既に取り除けてありましたが、マタイだけ、御使いが石を転がすのを彼女達が目撃します。先日の祈祷会でも福音書によって書かれている事が違うという問題が出ました。福音書は主の復活後4-60年後に、目撃証言として伝えられてきた事を書いた証言の記録なので、確かに差異はあります。復活したのは真実です。その伝え方が違うだけです。

 さて彼女達は、墓で御使いから、主が死人の中からよみがえり、弟子達がガリラヤに行けばそこで会えると伝えるよう言われました。弟子達にそれを伝えようと出かけた時、主が彼女達に会いに来ました。そして同じ事を命じました。伝言を聞いた弟子達は主に指示された山に登りました。そこで主イエスに会い、礼拝しました。彼らはどんな気持ちで主に会ったのでしょう。御使いを見た番兵達は、その姿の恐ろしさに震え上がり、死人のようになったと4節にあります。しかし御使いから話を聞いた女性達は、恐れはあっても大いに喜んで弟子達の所に向かっていました。主が「恐れることはありません」と言ったのですから、突然現れた主に驚き、恐れたでしょう。でも、それ以上に嬉しさに溢れ、近寄ってその足を抱き、主イエスを拝しています。

 弟子達は主に会い、礼拝しています。自分達の目の前に十字架に掛かって死んだけれど復活した主イエスがいることは否定できない事実だからです。復活から八日目に復活の主に会ったトマスも主を見て「私の主、私の神よ」と信仰を告白しました。そのトマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」と主は言いました。しかし今日の個所には、主を見て礼拝した弟子達の中に「疑う者たちもいた」と正直に記されています。実際に復活した主に会い、目の前の主を礼拝しているのです。それでも何人かは疑念を拭い切れなかったのです。人の想像を遙かに超える出来事、それが死人の中からの復活なのです。見ないで信じる人は幸いなのですが、そのことがどんなに難しいことかを改めて考えさせられます。

 私達は主イエスがここに共にいると信じているから礼拝しています。しかし、未だ救われていない家族、病気や困難に直面している人の為に祈る時に、信じ切れないでいる自分を感じてしまいます。主が目に見え、直接話し合え、主の御心を知ることができたらどんなに幸いかと思ってしまいます。そんな時、主を信じ、主を礼拝していながら、主が一緒にいると信じていない自分に気付き、ハットさせられます。主の臨在を信じ切るのは本当に難しいです。

 事実、主イエスが死人の中から復活したのですが、世の常識を越える出来事です。ですから弟子達の中に主の復活を疑う者達がいたのは当然なのです。しかし聖書はその事も正直に記します。見た人々が信じるか信じないかが問題ではなく、見ても信じられなくても、見て信じる者になればいいからです。ですから、主は疑う弟子達を責めません。彼らが信じないことも問題にしていません。事実、主が復活して目の前にいるのです。信じない者ではなく、信じる者になればよいからです。主は目の前にいる弟子達にご自分から彼らに近づき、語り掛けました。「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています」と主は言います。目の前にいるのが復活の主と分かりました。でも、主がどんな方であるかは未だ分かっていないのです。その彼らにご自分がどんな権威を神に与えられているかを明らかにしたのです。主は真実を伝えました。しかしそれを真実と認める認めないは弟子達の自由です。私達についても同じ事が言えます。私達は主を信じ礼拝しています。聖書を読みます。聖書は、その主がどんな方かを教えますが、それを信じるかと問い掛けるだけです。信じるか信じないかは私達の自由に任せています。

 続いて、主は「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と大宣教命令を発しました。私達が主に会い、主が共にいると信じることは、主の働き人になることです。主は私達の働きが必要だから、私達に会い、共にいると知らせたのです。その後、主は「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言いました。「弟子にしなさい」は弟子達が自分の弟子にすることですが、自分の弟子集団を作って独立するのではありません。主が弟子達に命じたのは、彼ら自身が主に守るよう命じられた事を自分の弟子達が守るように教えることなのです。主は彼らの弟子の主です。主はヨハネ21章で、ペテロに私の羊を飼いなさい、牧しなさいと言いました。ペテロの羊ではありません。主の羊です。主の羊を飼い、牧し、羊である弟子が主に相応しい者に成長する手助けをするよう命じたのです。

 主は、主の弟子となった人々に、父、子、聖霊の名においてバプテスマを授けよと命じました。これは家畜に刻印を押すように、その人が主の所有物である印を付けることです。バプテスマを受けた人は神のものとなったしるしとして、神にかたどって造られた新しい人を着ることになります。これはその人が新しい人生を歩み出すことを意味します。聖書の「使徒の働き」は、ペテロやパウロ達にその働きができたと記しています。そして、同じ働きを私達もすることが出来ると教えられます。十字架に掛かって死に、復活し、彼らと共にいた主イエスが、世の終わり迄、いつも私達と共にいるからです。

 私達は今、主イエスが復活し、私達と共にいる新しい世に生きています。この異常事態の世も、主がご自分の権威の元に、全ての事を行っていると信じましょう。主は全ての権威を与えられています。主が行う目的はただ一つ、世の人々の救いです。力強い御手をもって主は人々を救いへと招いています。その為に私達が必要なのです。人は生きている限り自分にしかできない仕事があります。その事を信じ、自分にできる事をして、主の業に励みましょう。