メッセージ(大谷孝志師)
誓わなくても大丈夫
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年5月17日
マタイ5:33-37 「誓わなくても大丈夫」 牧師 大谷 孝志

 日常生活の中で、意識して誓ったことがない人が多いのでは。まして、ここで主イエスが言うように、天にかけて誓ったり、地にかけてとか、教会にかけて誓うこともないのでは。勿論自分の頭に掛けて誓ったことも。しかしユダヤ人は様々なものに掛けて誓ったようだ。何故人は誓うのか。自分の言葉が真実であると約束するが、相手がその言葉に信頼を持てるようにする為。一種の儀式と言える。

 「人を見たら泥棒と思え」という格言のように、まず相手を疑ってしまうことがある。それでは社会生活がギスギスしたものになってしまう。お互いに信頼できればスムーズに生活できる。その為に誓いに確実性を持たせようと、両方が信頼できるものを引き合いに出す必要があると考える。創世記31:53に「ヤコブが父イサクの恐れる方にかけて」誓ったとある。この方は神だが、聖書がこう表現したのは十戒に「あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない」とあるから。聖書では度々神が誓いの保証人とされているが、イエスの頃になると神を軽々しく使う印象を避け、天や地や神殿、自分の頭などに掛けて誓ったと思われる。

 さて、主は「昔の人々に対して『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません」と言う。主は誓うことを全面的に否定した。何故か。誓いは、相手に相手が言った事に誠実であることを要求しているから。でも、私達もそうだが、人は誠実であろうと思っても、状況によってはつい誤魔化しが入ってしまい易い。嘘をつく訳ではないが、守れないことを何とか正当化しようとする。だから相手に誓いを要求し、守れない時の保証にしようとする。主は、人が日常生活の中での言葉の重みと相手への信頼を大切にし、互いの関係が誓いを必要とする関係になってはいけないと教えた。

 主は、「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい」と教える。誓う必要が無くなれば、それだけで良いから。つまり、「あなたは明日9時に必ずここに来ますか」と聞かれた時に、何かに掛けて自分の言葉の真実性を保証させる必要が無くなるので、来られるなら「はい」で良いし、来られないと分かっていれば「いいえ」で良い。

 主は私達に素直に生きれば良いと教える。この素直さ、正直に生きるというのが人には意外に難しい、色々な可能性を考え、少しでも良い方を選ぼうとしてしまうから。相手への配慮よりも、自分にとって何が、どちらが得かを考えてしまうから。だから主は「はい」「いいえ」以上のことは悪い者から出ていると教える。

 私達は結婚式や就任等の特別な場合を除いて、確かに誓うことは余りない。しかし約束をすることはある。そんな時、主が誠実に、正直に相手に接しなさいとの教えを思い出そう。誓いに頼るのは、相手を心から信頼していないから。それ以上に、主が全てを知り、整え、平安を与えてくれると信じないことになるから。

 私達は目に見えなくても神の国に、主が全てを支配する世界に生きている。だから主はこの山上の説教で私達が安心して共に生きられる道、方法を教えている。パウロが言うように、「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留め」る生活をしている。目を留めるとは、見えないけれどもあると信じて見詰め、心を注ぎ出すこと。私達の信仰生活において、最も基本的、根本的生き方。主を信じ、相手を信じ、主を愛し、相手を愛そう。主がそれを求め、その事を喜ぶから。