メッセージ(大谷孝志師)
相手の身になって愛する
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年5月24日
マタイ5:43-48 「相手の身になって愛する」 牧師 大谷 孝志

 主は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言う。今、多くの人は、敵だの迫害する者だと言われてもピンとこないのでは。しかしイエスがそう言ったのは、その頃のユダヤはローマの支配下にあり、多くのユダヤ人はローマを敵視していたし、ユダヤ人同士は、兄弟、隣り人と呼び合っても、他民族の人達を古くから敵と呼んでいたから。更に初代教会の人々はローマの支配者、ユダヤ教を熱心に守ろうとする人々の両方から激しい迫害を受けていた。だからこの言葉は、直接聞いた人々、初代教会の人々にとっては実感できる言葉だった。

 何故、初代教会の人達は敵から迫害を受けたのか。彼らが聖霊に満たされ、主の証人となり、熱心にそして大胆に福音を伝えたから。しかし全てがそうだった訳では無い。黙示録の中で主は、ラオディケアの教会の御使いに「あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしはあなたを口から吐き出す」と伝えよと言った。生ぬるい信仰の持ち主もいたらしい。だからと言って、迫害を受けない自分達を、このままでも良いのだと思ってはいけない。私達が敵の存在を感じないのは、敵がいないからではなく、私達の信仰が生ぬるいので、敵の方で攻撃を仕掛ける必要を感じないので無視しているからと気付こう。

 主がそう言ったのは、人はなかなか相手の身になって人を愛することが難しいから。今安全であればそのままでいたい、冒険して危ない目に遭いたくないと思ってしまう。危険を避けたいと思うのは本能と言うべきもの。しかし崖から落ちそうになっている人を見て、危ないねと声を掛けるだけで何もしない人はいないと思う。自分がそうなったら、助けて欲しいと思うから。死にたくないと思うから。

 使徒達は迫害されても、危険顧みず、相手を助けるために大胆に福音を伝え続けた。それが御心であり、御心を行うことを主は喜び、自分達に恵みと平安を与えると知っていたから。それは自分中心、自分さえ良ければ良いという生き方と大して変わらないと思うかも知れない。しかし大きな違いが。ペテロ達は迫害を受け、福音を語ることをを禁じられたが、「人に従うよりも、神に従うべきです」と答え、主イエスこそ救い主と堂々と伝え続けた。人々は彼らを捕らえた。鞭で打ち、福音を語るなと命じた上で釈放した。屈辱と激しい痛みを受けたが、彼らはそうなったことを喜んだ。それは主が、誰も滅びることがなく、全てての人が悔い改めに進むことを望んで忍耐してるから。自分達の福音宣教が一人でも多くの人に届くことを主が望んでいると知るから、死も敵も恐れずに宣教を続けた。

 彼らは自分達の宣教によって一人でも救われるなら、その人の人生が変わり、素晴らしい時を生きられると信じた。自分達が信じることによって与えられたものを相手が与えられることは、自分達の大きな喜びになるから。彼らは自分を愛するように相手を愛している。それは彼らが相手の身になって相手を愛したから。

 主は「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」と命じた。どんな人でも、主に愛される資格を持つから。この人あの人は駄目と決め付けてはいけない。愛せないと思う人を愛することによって自分の殻を破れる。主はそれを望む。様々な人やものを恐れる時、人は、神ではなくそれらに心を奪われてしまう。それにより、神との関係、周囲の人との関係が壊れる。それは御心ではない。主は共に生きることを望む。その為に、相手の身になって愛する者になろう。自分という殻を破り、心から主を愛し、互いに愛し合える者になれ、主に喜ばれる者になれるから。