メッセージ(大谷孝志師)

聖霊に満たされて歩む
向島キリスト教会 聖霊降臨日 聖日礼拝説教 2020年5月31日
聖書 使徒2:1-13「聖霊に満たされて歩む」  大谷孝志牧師

 今日は、五旬節の日に起きた出来事を通して、父なる神が私達の為にして下さった事を学びます。この日は過越の祭、仮庵の祭りと共にユダヤの三大祭りの一つです。七週の祭り、刈り入れの祭りとも呼ばれました。「皆」がとありますが、1:13の主の昇天を目撃した11人にマッティアを加えた12人の使徒達か、彼らに女性達と主の兄弟達を加えた1:14の人々か、或いは1:15のマッティアを選出した時の約120人かは不明です。しかし、2:14、37から12人の使徒達と考えられています。彼らは「家」にいたとありますが、これも1:13の泊まっていた屋上の部屋か、1:15の120人以上が入れる家かは不明です。聖書は記録文書ではないので、分からないことは沢山あります。しかしこの場所に、物音に驚いたエルサレムにいた人々が直ぐに集まって来たので、3:11、5:12に使徒達がいたとある「神殿のソロモンの回廊」と考えられています。

 さて突然、激しい風が吹いてきたような響きが起こり、彼らが座っていた家一杯に響き渡りました。そして炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上に留まったのです。その大きな物音に大勢の人々が集まって来ました。「風」とあります。ギリシア語の風、息、霊は同じ言葉を使います。霊の到来が、激しい風が吹いてきたような響きを伴ったので、風が吹いたようなと表現しているのです。「炎」は、霊が燃える火のように見えたからです。「火」も出エジプト記の燃える柴やイスラエルの民を導いた火の柱のように、見えない神の臨在を表す時に使われます。「舌」は、4節の「ことば」と原語が同じです。御霊が彼らに留まり、彼らが御霊に満たされ、御霊が語らせるままに「神の大きなみわざ」を語れた理由を人々に示す為に、神が炎のような舌を彼らの上に留まらせたのです。「音」が彼らがいた家一杯に響き渡ったのも、この音により、全世界が神の霊に満たされ、神の言葉が全地に響き渡るようになることを神が知らせたのです。皆が他国の色々な言葉で話し始めたことも、キリストの言葉が世界の果てまで届くという今に至る神の御業が、この聖霊降臨の出来事によって始まったことを見聞きできる形で表したのです。

 さて、物音に驚き集まって来たのは、天下のあらゆる国々からエルサレムに来て住んでいた敬虔なユダヤ人達でした。祭りの為に多くの人々がエルサレムに巡礼の為に来ていました。世界各地に散らされていたディアスポラと呼ばれる人々です。しかしここに集まってきたのは、シオンと呼ばれるエルサレムに主の栄光が現れ、そこに住む者が豊かな祝福に満たされると信じ、この町に移り住んで、その時を待ち望んでいた人々です。聖書は、その人々が集まったと記すことで、旧約で約束されていた神の救いの時が、今始まったことを示しています。彼らが、使徒達が話している言葉を自分の国の言葉として聞け、しかもその内容が神の大きな御業であると分かったのです。この出来事は、私達にも御霊に満たされる出来事が起きるなら、私達が伝える福音が、人々によそ事としてではなく、神が行った自分達に必要な事として心に届くと教えます。ですから、まず福音を伝えれば良いと教えられます。

 この日起きた「多言語奇蹟」については二つの説があります。実際に使徒達が近隣諸国の国語で話した説と彼らが異言を話し、それを人々が自分達の国の言葉として聞き取ったという説です。どちらにしても、使徒達はエルサレム神殿から遠く離れたガリラヤの普通の人達です、このような事ができたのは不思議以外の何ものでもありません。神が御力により彼らにさせたのです。この日に主イエスが約束していた聖霊降臨の出来事、神が直接この世に突入する出来事が起きたのです。4:31でも、使徒達の祈りに応えて、彼らに聖霊が降り、一同は聖霊に満たされ、神の言葉を大胆に語り出しています。

 正に新しい時が来たのです。しかし新しい時はこの聖霊降臨に始まったのではありません。神のことばが受肉して人として世に生まれた主イエスの誕生の時、ガリラヤから来てヨハネからバプテスマを受けたイエスを、神が自分の愛する子と認めた時、イエスが神の福音を宣べ伝える公生涯に入った時、主が十字架上で息を引き取り、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた時、主が死人の中から復活した時と、神がこの僅か数年の間に、立て続けに直接この世に突入し、神がこの世を支配する方であることを明らかにしているからです。神は様々な国に散らされていたユダヤ人をエルサレムという一つの場所に集め、皆が神の大きな御業という一つの事が語られるのを聞き取り、理解できるようにしました。それによって何が起きたのでしょう。「言い合った」とあるように、言葉が通じ合うことで、思いを互いに言い合えたのです。見方を変えると、思いが通じ合ったのです。創世記11章には「バベルの塔」の話があります。その頃、全地は一つの言葉で、人々は共通の目的を持って行動できました。しかし人々は、神が同じ話し言葉を持たせた恵みを、自分達の力を神に誇示する為に使ってしまったのです。人は自由を自分の為に使い、神から離れてしまい、神が人を創造した理由と目的から大きく逸れてしまったのです。それで神は人の言葉を混乱させ、思いが通じ合わないようにしました。そしてその後、神はアブラハムを選び、祝福し、彼の子孫を神の民として成長させました。しかしどうしても、人は自分の力では神の民として、神に喜ばれる者になれませんでした。ですから神は御子を世に与え、御子である主イエスを信じるなら、神に喜ばれる者となれるようにしたのです。バベルで起きた事と逆の事が起きたのです。神がこの世に直接突入し、神が御力により、それ迄の古い時を、神と人の関係を終わらせたのです。そして、主イエスを信じるなら誰でも救われ、神の子とされ、神の国の民として生きられる新しい時が始まったのです。今やイエスが全権を与えられ、この世界の主キリストとして、王として、大祭司として全ての人を支配しています。この目に見えない霊的事実を、神は聖霊を使徒達に見聞きできる形で下し、聖霊に満たされて語る彼らの言葉により、人々に理解できるように知らせたのです。その働きは地の果てに迄及び、日本に届き、私達も主を信じ礼拝しています。それだけではありません。主は私達にも同じ使命を与えています。聖霊が私達にその事を知らせ、務めを果たせるように恵みと平安を与えています。私達は、主の証人としてこの世で主と共に歩んでいます。感謝です。