メッセージ(大谷孝志師)
自分でなく神の為に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年5月31日
マタイ6:1-6,16-18 「自分でなく神の為に」 牧師 大谷 孝志

 今日の個所には、「施し」「祈り」「断食」というユダヤ教徒にとっても、キリスト者に大切な三つの行為について、主が教えています。この三つはほぼ同じ形式で語られています。「……するときには、偽善者が……するように、……してはいけない。まことにあなたがたに言います。彼らは既に自分の報いを受けているのです。あなたが……するときは、……しなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いて下さいます。」と主は教えています。

 ここで言う「あなた」「あなたがた」は、主に従って来た大勢の群衆であり、みもとに来た弟子達です。では「偽善者」とは誰を指しているのでしょうか。主は、5:20で「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人にまさっていなければ」と言いました。そして今日の個所の「偽善者」は、明らかにその彼らを指しています。

 施しは、自分のものを相手に与えることです。他人が見れば、こんな良い事をするあなたは偉いなと思います。でも、人に褒められようとして施しをするのは間違いと主は言います。祈りも断食も同じです。私達人間にとって、神との関係が一番大事なのです。施しをするのを見た人は、何て善い事をする人なんだろうと褒めるでしょう。その善い事については、その人は褒められるという報酬を、既に受けてしまったのです。自分の信仰深さを人に知ってもらおうと思い、会堂や大通りの角に立って祈ると、それを見た人が、なんて敬虔な信仰者なんだろうと感心するなら、その人は感心されるという報酬を既に受けてしまったのです。
断食も同じです。自分は断食していることが人に分かるようにと顔をやつれさせるとします。ああまでして自分を克服して、神に喜ばれようとしている何と自分に厳しい信仰者なのだろうと思われたら、そう思われた時点でその人は報酬を受けてしまったんだよと主は教えているのです。

 主は断食について教える中で、「断食をするときは、頭に油を塗り、顔を洗いなさい。それは断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。」と言いました。施しをするにしても、祈りにしても、神に見てもらえることが大事なのです。自分の信仰を、自分の神への思いを神に見てもらえばそれで十分なのです。

 さて、施し、祈り、断食は何の為にするのでしょうか。神に仕える為、神との交わりを保つ為にするのです。それなのに、パリサイ人達は何故それらを人の前で、人に見られるようにしたのでしょうか。それをしなければ、自分達が熱心なユダヤ教徒と見られないと思ってしまっていたのです。いくら自分が正しいことをしていても、他の人に気付いてもらえなかったら、あの人は駄目なパリサイ人だと見られてしまうと考えたのでしょう。自分は神に認められ、喜ばれる正しい事をしているのですが、それを神の為にするのではなく、神の御名が称えられる為にするのではなく、自分の為、自分が人に認められる為にしてしまったのです。

 神の反応、評価は見えなくても、人の反応、評価はよく見えます。でも、人の良い評価を求めて行動すると、人だけを見つめ、神に目を注がない自分になってしまいます。それでは神に「良い忠実な僕よ。私の喜びをと主に喜んでくれ」と褒めていただけません。人目を気にせず、神が喜ばれるか、神に受け入れられるかだけを考え、実行しましょう。神はそれを私達が気付かないで見ていて、素晴らしい報酬を与え、私達の労に報いてくれます。それが私達の天の父なのです。