メッセージ(大谷孝志師)

私にあるものを上げる
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年6月7日
聖書 使徒3:1-16「私にあるものを上げる」  大谷孝志牧師

 聖霊降臨の日の数日後です。ペテロとヨハネが午後三時の祈りの時間に宮に上っていきました。それは、彼らはイエス・キリストが主であり、神の子、救い主と信じる主イエスの弟子でしたが、ユダヤ教徒でもあったからです。今は物乞いをする人を見掛けないが、私が子供の頃は、傷痍軍人と呼ばれる人が、白い服に首から箱を提げて、道端に立っていました。通る人達の何人かは箱にお金を入れていました。社会保障も今程充実していなかったので、体が不自由になって働けない人は、物乞いをするしかなかったからです。

 主は、この物乞いの人を用いてペテロ達に福音宣教の機会を与えたのです。彼らは主イエスを信じる信仰の素晴らしさがこの人をこのように変えたのだと知らせ、その務めを果たしました。彼がこの時、宮の門に置かれたのには理由があります。決められた時間に神殿で礼拝するのは敬虔なユダヤ教徒でした。そして施しは敬虔であることを表す行為だったので、進んで施しをしました。ですから彼は当然のように二人に施しを求めました。彼のように、教会にも生活の助けを、施しを求めて来る人がいます。昔、仕事を探しに来たが見つからず旅をしている人に、交通費を貸したことはありました。宮で物乞いをしていた人のように、体が不自由で健常者のように働けない人が来た記憶は私にはありません。酒の匂いをさせてきた人、明らかに元気そうなのに月末、謝儀が入る頃に来た人はいました。教会は困っている人を助けてくれる所というイメージを持つ人がいるのは確かなようです。6月号のJBに「こども食堂」をしている教会の紹介がありました。地域のニードに応えてその働きを始めたとありました。コロナウィルス感染防止の為休んでいますが、オープンチャーチ【タラント】の働きも地域のニードに応える働きの一つです。ここに来る人々は生活の糧を求めて来ている訳ではありません。でも、生きる為に必要なものを求めて来ていると私は思っています。何故その人々は来るのでしょうか。私達がその人々が必要とするものをを持っているからです。それをその人達に与える務めを、主は私達に与えているからなのです。

 ペテロとヨハネは、この人が求めるものを自分達が与えられると知っていたのです。ですから、二人は彼に「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じました。すると彼は立ち上がり、歩き出したのです。私達の教会でも、病が癒やされるよう求めて、主の名によって、束縛している病に命じても、祈りが聞かれない人々が何人もいます。確かに癒す、癒さないは御心による事、神が目的を持ってしている事と私達は知っています。しかし私達に足りないものはないのでしょうか。その事を謙虚に考え、自分を見詰めましょう。今日の聖書はそれについて大切な示唆を与えています。私達は、主イエスを信じれば必要なものが与えられると知っています。そして必要なものを与えられる経験をしています。私達が与えられている恵みを数え、その恵みを私達がしっかり味わい、主がその人の願いを聞き、癒やされると確信をもって知らせているかどうか、顧みてみましょう。

 さて、生まれつき足が不自由で施しを求めて座っていた人が歩き回って神を讃美しているのを見て、人々はものも言えない程驚きました。もし私達がその場にいたら、同じように驚いたと思います。しかし考えてみて下さい。私達はその驚くべき奇蹟を行った主イエスを信じ、今礼拝しているのです。彼がペテロとヨハネに付きまとっている見て非常に驚いた人々が、使徒達の所に一斉に駆け寄って来ました。しかしペテロは平然としています。何故でしょう。使徒と人々は同じ世界にいます。でも、人々はこの世、使徒達は神の国という全く違う世界に生きているのです。ペテロは「あなたがたが驚いているのは、私達が同じ人間でありながら、何でこんな事ができたのか分からないからです。人の知恵と力だけでこの世の事が起きると考えているからです。実は私達が、そして皆さんが信じている神ご自身がこの驚くべき事をしたのです」と教えたのです。使徒達は、全知全能の神、万物の創造者、全てのものをご自分のものとして愛し、支える神が支配する世界に生きているのです。そのペテロ達にとってはこの奇蹟は当然の事だったのです。そして、ペテロは人々が知らなかったけれども、自分達が知っている真実を告げます。「あなたがたは罪無きイエスを犯罪人の一人として殺しました。しかし、神はこのイエスを死人の中から復活させました。自分達はその証人です」と。

 彼らは復活の主に会い、主が生きて働いている事を知りました。ですからその事を人々に知らせています。これは当然の事でしょうか。と言うのは、当然だと分かっていてもできないのが、私達人間だからです。私達も、主が共にいること、生きて働いていると知っています。その事を人々に知らせています。しかし、思うような結果が得られず、自分は駄目だと思い、諦めることすらあります。それは使徒達と私達の間に大きな違いがあるからです。ペテロは自分にあるものをその人に上げました。足の不自由な人を、イエスの名が、その名を信じる信仰の故に強くし、完全な体にした事実を体験しました。主の力を実感しているのです。私達も、主が与える力、恵みを味わっています。主が世の全てを支配していると方と証ししています。でも人々はその事実を見聞きしても驚かず、不思議に思いません。主の力を実感できないから、私達がいる教会に来ようとしません。しかし聖書は私達に大切な事を教えています。この主の力は私達が求めて示されるものではないということです。使徒達が物乞いの人に会うことを求めたのではありません。主が機会を与えたのです。但し、彼らは主が力を示すと信じていました。これが重要です。だから彼は「私にあるものを上げよう」と言えました。自分達が彼に働き掛け、主の名によって命じるなら、主が彼に信仰を与え、主が彼の求めに応えると信じています。事実そうなりました。このペテロの言葉は私達の模範です。聖書が私達もこの信仰を持てる、私達が信じれば主が力を示し、奇跡が起き、教会が変わると教えているのです。主を信じましょう。主を信じ、直面している事に向き合いましょう。主は、信じるなら御霊が助けて下さり、私達にもできると教えています。「本当かな」と思わず、「信じる者にはどんな事でもできる」と言う主を信じましょう。それが私達の信仰です。