メッセージ(大谷孝志師)
天に宝を積む
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年6月7日
マタイ6:19-24 「天に宝を積む」 牧師 大谷 孝志

 この世で生きていく為にはお金が必要。主イエスの一行も何も食べずに生きていたのではないからお金は必要。金入れを持つユダに、主が彼に何かを買いなさいと言ったと周囲にいる者が思った(ヨハネ13:29)ので、そのお金は主のものと考えられる。しかし主の行動を福音書から考えると、お金が無ければ生きていけないとは考えていない。お金や食べ物は必要に応じて与えられると考えていた。泊まる家がなければ野宿も平気だったと思われ、平然としている。そこが私達と違うところ。主は先の事が分かっているから。私達は分からないから不安になる。神に全てを委ねていれば大丈夫と分かってはいる。しかし委ねきれない。人は信じると言う場合、正直に言えば、分からないから。人は分かっている事を信じるとは言わない。先の事が分からないから、自分のことは自分で何とかしなければと思ってしまう。自分で得ようと思えば思う程、得ようと思うものに縛られてしまうのが私達。心が神から離れてしまう。多くの場合、生きる為には仕方がないと諦めてしまうのでは。神も信仰も礼拝もみな大事だと分かっていても、それだけではこの世の中生きてはいけないと考えてしまうから。主イエスも人として世に生きているから、人々が神も大事だが富も大事だという気持ちを分かってはいる。

 分かった上で、全てを父なる神に委ねよと言う。人は富を大事にし、富がなくなると大変なことになると思うと、どうしても富に執着してしまう。執着すると、執着するものしか見えなくなってしまう。富に執着すると富しか見えなくなる。だから、神を大事にする思いが消えてしまう。富が一番大事だから、心が神から離れても何も感じなくなる。神に仕える事などどうでも良くなってしまうから。

 だから主は、地上に宝を蓄えるのは止めよと言う。地上の宝は目に見えるから、どうしても頼りたくなってしまう。人は金がなくてはと思う。でもその金は泥棒に盗まれたら無くなってしまうもの。金を貴重品に換えておいても、変質すれば価値がなくなる。地上に蓄えた宝は、本当は頼りにならないことに気がつかなければいけないのだが、人はなかなかそれに気付けない。主は、本当に頼りになるものが欲しければ天に宝を蓄えよと教える。天に大きな金庫がある訳でも、そこから生活に必要な金を引き出せるからと言うのでもない。主が天に宝を蓄えよと言うのは、私達の心を宝のある天、つまり神に向けていさせることが大事だから。心を神に向けていることは本当に大切なこと。でも、天に積む宝と何だろうか。金の延べ棒でも貨幣でも、宝石でもない。それは神を第一にする心、神に仕えて生きようとする思い。その心、思いでこの世に生きていること、それが天に宝を積むこと。そんな事で人は安心して生きられない、衣食住がなければどうしようもないと世の人々は言う。でも、衣食住が十分なら、人は安心して生きられるのだろうかと聖書は私達に問い掛けている。「命はあなたのものか、神に与えられたものではないかと」。ヨブは言う「私は裸で母の胎を出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と。この信仰をもって生きる時、人はどんな状況に置かれても安心して世に生きられる。でも、この信仰もヨブの信仰が真理だと分からなければ持つことができない。だから主は、健やかな目を持てと教える。その目を持てば心が明るくなり、主に全てを委ねても安心して生きられると分かる。天に宝を積むなら、健やかな目を持てると聖書は教える。天に宝を積み、心から神に仕え、安心してこの世に生きる者となろう。