メッセージ(大谷孝志師)

御霊に助け導かれて
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年6月14日
聖書 使徒4:8-22「御霊に助け導かれて」  大谷孝志牧師

 先々週の聖霊降臨の数日後に起きた出来事の続きです。ペテロとヨハネが「イエスは死者の中から復活した。私達はその証人。主イエスを信じる者は永遠の命を得られる。だから主イエスを信じて救われよ」と神殿で宣べ伝えているに苛立った祭司長達と宮の守衛長、サドカイ人達が二人を捕らえましたが、既に夕方だったので留置場に入れました。何故苛立ったのかというと、彼らサドカイ人達は死者の復活を否定していたからですが、自分達の主張と違うからと言って勝手に刑を決めたり処罰したりはできません。最高法院の決議が必要だったからです。翌日、二人は最高法院に引き出され尋問されました。この人々は、マルコ14:64の「彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた」人々、イエスを縛って連行し、総督ピラトに引き渡した人々です。

 尋問された二人は、堂々と話し出します。二人が聖霊に満たされていたからです。そして御霊が語らせるままに語りました。二人は主に預言者として用いられたのです。音は同じだが「言葉を預けられた者」が預言者。先の事を予め言う者が「予言者」です。彼らは、臆することなく理路整然と語りました。パウロがテモテ二1:7に彼に書き記したように、「臆病の霊でなく、力と愛と慎みの霊を与え」られていたからです。ユダヤの指導者達は二人の大胆さと、二人が無学な普通の人であるのを知って驚きました。彼らがこのような場所で、弁舌鮮やかに論じられるような人々ではなかったからです。

 二人は、ユダヤの指導者達が知らないでしてしまった事を知らせました。しかし、彼らの言葉を読むと、二人が決して最高法院の人々の行為を非難していないことが分かります。自分達が厳しい処罰が下されることを恐れたからではありません。むしろ逆で、彼らが傷つかないよう配慮しているのです。彼らはイエスを十字架に付けて殺してしまいました。しかしそのイエスを、神は死者の中から復活させました。そのイエスの名によって、生まれ付き足が不自由だった人が歩き回り、飛び跳ねたりしながら、神を讃美していますと教えたのです。確かに彼らは罪を犯しました。しかし、神はその罪を赦していると知らせたのです。そうです。この知らせこそが福音なのです。今や、主イエスを信じるなら、彼らも救われるのです。勿論、彼らには罪を犯した自覚はありません。その罪を赦されていることも知りません。ペテロが詩編を引用して教えているように、自分達の世界が立派なものになるには捨てた方が良いと思った石が、世界を支える石となったのです。ペテロは言いました。「あなたがた十字架に付け、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストこそが、この世界のただ一人の救い主です。」と。ペテロのこの言葉は傲慢でも威嚇でもありません。愛と慎みに満ちた言葉です。私は、彼の言葉に、「神が神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:17)と、改めて教えられました。

 最高法院の人々は、ペテロとヨハネによって著しい奇跡が行われたことは否定しようがなかったので、二人を語るなと脅して釈放することにしました。

 最高法院に集まった人々はユダヤの社会的、宗教的、政治的権威、権力の持ち主でした。それに対しペテロ達は無学の普通の人達に過ぎません。ですから、8節のペテロの呼び掛けの言葉には、彼らに対する敬意が感じられます。しかし、彼は臆せずに堂々と語っています。何故そうできたのでしょう。それは先ほど述べましたように、神が彼らに「臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えて」下さったからです。彼が御霊に満たされ、変えられたからです。私達も変えられると信じましょう。それに加え、二人が宣べ伝えた福音を聞いて、大勢の人達が主イエスが死人の中から復活したこと、その主がこの人の体を癒やしたと多くの人々が信じ、男の数だけで五千人程になっていました。それに、足が不自由だったのに癒やされたその人が二人と一緒に立っているのです。聖書は私達に事実の大きさを示すと共に、事実が持つ重みを教えています。「既成事実」と言う言葉があります。受け入れざるを得ない事実です。だから、ユダヤの指導者階級の人々は二人を脅して釈放すること以外に方法がなかったのでしょう。しかし聖書が私達に教えているのは、私達も御霊に満たされるなら、変えられるということです。二人は一切イエスの名によって語ることも教えることもするなと命じられました。しかし、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断して下さい。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さない分けにはいきません」と言い、権力者達の要求を明確に拒否しました。

 日本にも迫害がありました。近くは第二次世界大戦中に、ホーリネス弾圧事件が起き、120余名の牧師が逮捕され、7人が獄死したのです。日本基督教団の幹部は、当局による検挙を歓迎しました。又、バプテスト基督教団の代表は当局の処断を幸いなことと言い、メソジストの牧師はこの処置を感謝しています。当時の教会は、礼拝の中で宮城遙拝を抵抗せずにしていたのです。権力に負けずに断固として正しい信仰を維持する難しさを痛感させられます。使徒達も権力者達も同じ神を信じていたユダヤと日本は違うかも知れません。しかし神に従うか、人に従うかの決断が迫られている点では同じなのです。 私達も神に従うか、世の人がすべき言う事に従うかの選択を迫られる時があります。しかし、二人のように私達も答えを知っているのではないでしょうか。聖書には答えが書いてあるのです。戦時中の教会指導者達も正しい答えを知っていた筈です。しかしこの世の風潮に負けてしまったのです。権力者である当局のする事を受け入れる以外にないと考えたのかも知れません。しかし40年近く経った1984年、日本基督教団は過ちを認め、関係者に公式に謝罪しました。当時の人々の思いは想像するしかありませんが、私達も同じような弱さと愚かさを持っていると自分を省みましょう。だからこそ、聖書は使徒達の言動を記して、私達にもできるのだから、正しい判断をするよう求めているのです。何よりも福音が世の人々に宣べ伝えられる為に主がそれを望んでいるのです。私達も主イエスを信じています。二人のように、自分が主の恵みを体験しています。主との霊的交わりの中で御心を示されています。主の証人になりましょう。そこに信仰者の真の生き方があるからです。