メッセージ(大谷孝志師)
人を裁いてしまう恐ろしさ
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年6月14日
マタイ7:1-5 「人を裁いてしまう恐ろしさ」 牧師 大谷 孝志

 人は誰でも相手の人を裁いた経験を持つ。自分は人を裁けるような人間ではないと思っていても、ある人を、厭になる、嫌いになる、我慢できなくなる、無視したくなる、そんな感情を持ったことが一度ならずはある筈。それらは裁き。だから、人を裁いたことの無い人は、この世に生きている限り、唯の一人もいないと私は思う。逆に裁いてしまうから人間だと言える。それなのに、主イエスは「裁いてはいけない」と言う。裁くことを禁止した。他人の言葉や行いを見聞きした事だけで裁かず、そうしてしまった背景、その人の環境、育ちとを考えなければいけない。その人と同じ状態に立たない限り、正しい判断は下せないからと当然の事を言ったのではない。主は一切の条件を付けない。裁くなとだけ教える。

 主が裁くなと教える理由の一つは、「人は相手を裁くその裁きで自分も裁かれる」から。「自分が裁かれない為」と主イエスが言うのは、人を裁くと相手に敵意を生じさせ、報復され、裁かれるからするな、と教えているのでは無い。人が人を裁くということ自体に大きな問題が含まれているから、人を裁くなと教える。

 裁くということについて考えて見よう。裁く人と裁かれる人との関係はどうか。裁く人は裁かれる人の上にいる。裁く人は裁かれる人の言動についての自分の判断は正しいと思っている。しかし一歩下がって、相手の言動に私には分からない別の理由や原因があるかも知れないと思えば、到底裁けるものではない。「月の沙漠」は美しい情景の歌だが、現実の砂漠には水は無い。潤いは無い。心地よく包む暖かさとも無縁。裁く行為には相手を寄せ付けない厳しさが。私達も人を裁く時、心が砂漠のようになっていないか。人を裁くのは辛いものがあるので、相手の為と思おうとするが、結局は自分の為では。裁く時、どう考えても自分への愛はあっても相手への愛は無い。少なくとも主のように、相手を愛する愛は無い。

 主イエスは裁くなと言うが、主はパリサイ人や律法学者を裁いている。しかし、主が裁いているのは、自分が正しいと思い込んで相手を裁いている人達。彼らが裁いている取税人、娼婦、その他の罪人は主は裁かず、友として受け入れる。パリサイ人らに彼らと一緒にいると非難されても、主は非難するのは誤りと言う。

 裁くなと教えるもう一つの理由は「自分が裁く、その裁きで裁かれ、自分が量るその秤で量り与えられる」から。自分を裁き、その秤で量り与えるのは相手でなく神。誰でも自分の欠点には甘く、人の欠点には辛い。自分の目にある梁に気付かず、相手の目にある塵を取り除かせてと言ってしまう。自分用の秤と他人用の秤を作ってしまう。主は、自分が相手を裁く基準、同じ秤で、神は裁くと知れ、だから裁くなと言う。では、何があろうと、何をされようと沈黙し、我慢しなければならないのか。主は十字架上で「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」と言い、これを実行した。その主を見上げる時、誰が人を裁けるか。裁いたら、一万タラントの借金を赦されたのに、六十万分の一の借金をした人を赦せなかった人と同類。しかし一切人を裁くなとの教えは、罪人の集まりであるこの世の現実とかけ離れていると感じないか。

 しかし主は言う。「偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけよ」と。そうすれば自分と相手の真実の姿を見られるから。しかし人には取り除けない。御霊に助けられる人が、自分の目にある梁を取り除け、相手の目にあるものを塵でしか無いと認め、そのままで受け入れ、愛し合い、共に生きられる、と主は教えている。