メッセージ(大谷孝志師)

一番大切なもの
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年6月21日
聖書 ガラテヤ4:12-20「一番大切なもの」  大谷孝志牧師

 毎月第三週のガラテヤ人への手紙を学びを再開します。今日の個所でパウロ自身が言うように、最初は彼とこの教会の関係は親密でした。しかし彼らは、パウロが宣べ伝えた福音から急に離れてしまったのです。それは17節にある「あの人たち」が、エルサレム教会で柱として重んじられているヤコブのところから来たことが原因でした。彼らがこの教会の人達をパウロが宣べ伝えた福音に反する福音、パウロに言わせれば福音と呼べるようなものではないのですが、その方が正しい福音だとして宣べ伝えたからです。ですから、彼がこの教会の人達が正しい福音に立ち戻れるよう願い、心を尽くして書いたのがこの手紙なのです。だからと言って、彼は自分に反感を抱いている人達を無理矢理自分の方に引き寄せようとも、取り入ろうともしていません。彼は自分に啓示されたイエス・キリストの福音に固く立ち、自分に反感を持ち、離れようとする人達に、この福音こそ神の御心と諦めずに教えています。

 パウロがガラテヤを訪れたのは、第二回伝道旅行の時でした。使徒16:6に「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フリュギア・ガラテヤの地方を通って行った」とあるので、この時と考えられています。「私の肉体が弱かった」のは、彼が、マラリヤかてんかんの病気だったという説もありますが、聖霊により生活に支障が出る程の病気になったからです。この病は教会の人々にとって試練となるものだったようです。当時病気は原因の分からないものが多く、その人の罪に対する神の罰で、それ故汚れていると見られることが多かったからです。しかし6:11に「こんな大きな字で、私はあなたがたに自分の手で書いてます」、また4:15に「できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえした」とあることから、彼の病気は、眼病であったという説が最も有力です。人々はそのパウロを神の御使いであるかのように、キリスト・イエスであるかのように受け入れたのです。聖霊が彼を助け、その状態の彼を用いて素晴らしい働きをさせたのです。主は、深刻な病をも人々の救いの為に用いる方なのです。Ⅱコリ12:10の彼の「わたしは、キリストのゆえに弱さ、…困難を喜んでいます。というのは、私が弱い時にこそ、私は強いからです」との言葉は、正に彼の実感なのです。

 かつて彼らは、彼が伝えた福音を喜んで受け入れました。でも彼を「であるかのように」と見たことに注意しなければなりません。そこに重大な変化の原因があるからです。彼を素晴らしい一人の人として見たに過ぎず、彼の病も憐れみ、同情の対象でしかなかったのです。彼が重荷を負いながらも自分達の為に労する姿を見ました。しかし福音の素晴らしさでなく、人としての彼の素晴らしさに感動していたに過ぎなかったのです。牧師に心酔していた信徒が、牧師が交代した途端、掌を返したように、前任者の欠点を吹聴していると聞いたことがあります。悲しい事です。牧師は福音を正しく伝え、その福音を信徒が正しく受け止め、正しく主に仕えるよう懸命に労します。自分をではなくキリストを伝えます。しかし、牧師も信徒も人間なのです。
 御霊に導かれ、誠心誠意主に仕えつつ人々に仕えても、パウロの言葉や姿勢に、人々が自分達に合わないと感じてしまったのは、人が語り人が聞くのですから仕方がないと言えます。しかし彼らの自分への思いを非常に冷たく、敵意すら感じたようです。彼は「私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵となったのでしょうか」と彼らに問い掛けます。彼が真理を語ったからこそ、人々は彼の福音を信じ、主の祝福を豊かに頂いていたのです。しかしエルサレム教会から来た人々は、彼の教えでは神に喜ばれる者になれません。彼の教えを捨て、私達の教えに従いなさいと彼らに迫ったのです。サタンが彼らを自分のものにする為に、自分の手先に使ったのです。彼は敵はサタンで、エルサレム教会から来た人々でもこの教会の人々でもないとは分かっています。ただ、彼らがその事が分からず誘惑されてしまったのです。
 サタンは私達も主から引き離そうと機会を狙っていると知り、注意しましょう。その力を跳ね返すには御言葉を心にしっかりと蓄え、日々御言葉によって生きていることが大切です。彼は自分に反感を抱く人々を非難しません。大切で必要なのは、彼が伝えた福音が真理であると彼らが気付き、正しい道を見出すことだからです。私達の信仰も揺れ動くことがあります。主もその私達を暖かく見詰め、御言葉を見聞きする時を与えています。私達がはっと心を主に向け直す時があるのはその為です。主は私達を愛で包んでいます。

 彼は「あなたがたの為に私が労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたの為に心配している」と言います。私達も主の証人として、世の人の為に懸命に努力を積み重ねても、無駄かなと落ち込むことはあります。しかし、努力するのは自分の為でなく、世の人の救いの為なのです。私達はこれを忘れてはいけないのです。だからこそ彼は、Ⅱコリ11:24-27にある宣教の旅路で受けた凄まじい苦難に挫けること無く、大胆に福音を伝え続けられたのです。彼は偉大な人物、優れた知性の持ち主です。だから素晴らしい働きが彼にできたのではなく、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全てのことにおいて感謝しなさい」とテサロニケ教会の人々に教えた事を彼自身が実践していたからです。御言葉を実践する時、私達も大きな働きが出来ます。御言葉には力があります。聖霊が私達の求めに応えて働くからです。

 彼が、人々が自分をどう思おうとも問題にしていないのは、彼らが救われ、彼らが真に神の民となるのを心から願うからです。私達も、相手が主イエス・キリストを信じて救われて欲しければ、相手の評価を気にしたり、遠慮したりしている時ではないと知りましょう。世の終わりはいつ来るか分からず、明日来るかも知れないからです。時が迫っているのです。その思いを持っていましょう。同時に「人が主を信じられるのは奇蹟」との思いをしかりと持ちましょう。主の御業なのです。私達も、世の人々が救われる為の苦しみを味わっています。でも主は、彼や私達以上に人々の救いを願い、今も苦しんでいます。彼は途方に暮れても行き詰まりません。何故でしょう。Ⅱコリ4:15で言うように「全ての事は私達の為であり、恵みが益々多くの人々に及んで感謝が満ち溢れ、神の栄光が現れるようになる為」と彼は知っているからです。