メッセージ(大谷孝志師)
誰に何を求めているか
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年6月21日
マタイ7:7-12 「誰に何を求めているか」 牧師 大谷 孝志

 私達は今、この礼拝堂で主を礼拝している。何故ここにいるのか。教会で夕礼拝をすると決められているからか。牧師家族は、教会で決められたことはきちんと守り、模範を示さなければならないからか。そうではないと思う。それも理由かも知れないが、もっと大きな理由がある。この世で生活していると様々な疲れを覚える。礼拝堂で主を礼拝すると、疲れを癒やされ、心が満たされる。目に見えないがいつも共にいる主に霊的に会えるから。その主の御言葉を聞けることは素晴らしい恵みだから。「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」と言う主に霊的に会えるから、礼拝に来る。

 礼拝は、説教を聴く為でも、同じ信仰の仲間に会う為でも、その温かい雰囲気に触れ、味わう為でもなく、主を礼拝する為、言い換えれば主に会う為。牧師でも兄弟姉妹でもなく、つまり、人にではなく主に必要な何かを求めて来る。そしてその主に今日の御言葉にもあるように「求めなさい。そうすれば与えられます」と言われる。素晴らしい事。しかしこの御言葉を聞いた時、心から「アーメン」と言えたか。心の中で「本当に求めれば与えられるのだろうか。周りを見ても、過去を振り返っても、与えられなかったものの方が遙かに多かったではないか」と呟いたことはないか。ヤコブの手紙4章にこうある。「求めても得られないのは、自分の快楽の為に使おうと、悪い動機で求めるからです。」しかしこの御言葉を聞いて、私もそうだが皆さんの心にも、「主を信じる者として、主よ御栄光を現して下さいと真剣に祈りつつ求めても、得られない方が多かったのではないか」との思いはなかったか。私達は持っていないから所有することを求め、欠けているから補われることを求め、必要とするから、満たされることを求める。無いということが、不安や苛立ちを生じさせ、また悲しく辛く苦しい思いにする現実がある。

 聖書を読むと、多くの人が主に求め、与えられている。それらを読み「主は私の求めにはどうして応えてくれないのか」と呟いてしまい、この御言葉を素直に受け取れなくなる時がある。しかし今回、私の求め方が間違っているのに気付かされ、改めて、主の勧めの言葉をどう受け取れば、主の恵みを豊かに味わえるかを学んだ。大切なのは、主は恵みと平安を与え、喜びで私達を満たす方と信じることだと。私達は聖書を読み、祈り、黙想する時、主が与えようとしている答えに近付いているのに気付けないことが問題が。与えられないことに不満や不安を感じるなら、自分がどれだけ主に聞く姿勢を持っていたかを反省する必要がある。主は6:33で「まず神の国と神の義を求めなさい」と言う。主は自分達が必要と思うものを求めれば、与えられると教えていない。求め方の手本を、主はゲッセマネでの悲しみの余り死ぬほどに苦しみもだえる祈りの中で「わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままになさってください」と示している。この神の御旨への絶対的信頼と服従こそが、私達に求められていている。主は私達が信じ切れない者と知る。私達は弱い、汚れた霊に憑かれた子の父のように、信頼はするものの「おできになるならお助けください」と求めてしまう。「信じる者にはどんなことでもできる」と言う主を信じているのに。信じ切れいない。それは、主に服従しきれず、全てを御心として受け入れていないから。私達は、心を鎮め、誰に何を求めているのかを見詰め直そう。そうすれば、自分の前にある「常に喜べ、絶えず祈れ、全てのこと感謝せよ」との御言葉が響く新しい道を見い出せる。