メッセージ(大谷孝志師)

空しさに負けない人生
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年6月28日
聖書 伝道者の書9:1-18「空しさに負けない人生」  大谷孝志牧師

 第三週に続き、第四週の旧約聖書を通しての学びも再開します。人は誰でも幸せになりたい、不幸になりたくないと思うのではないでしょうか。そしてその為に、精進し、努力をします。人は、世にいる善い人や賢い人を見ると、すごいな、良いなと思うようです。人はその言葉や行いが善いので幸せになっているのではと思ってしまうからです。しかしこれを書いた伝道者は、その人の品性や知恵によるのでなく、神がそうしているだけだと言います。なぜかと言えば、現実の世界では、品性や知性が優れている人が必ず幸せになるとは限らないからです。彼が言うように、人間には、こうすることが愛か、憎しみか、或いは逆なのかを知ることはできないのです。自分のした事が相手を愛することになるか、憎むことになるのかが、自分の意志、努力した通りになるとすれば、これ程、安心で、幸せなことはありません。しかし、一喜一憂することになるのが現実なのです。彼は、全ての事は神がしたことの結果に過ぎないからだと言います。ですから、この世に起きる全ての事は、私達人間からすれば、ただ空しいの一言にしかならないと彼は見抜いています。彼は、善人、義人、清い人、犠牲を献げる人、神に誓いを立てる人が幸せになるとは限らないし、逆に、悪人、不義な人、汚れた人、犠牲を捧げない人、神に誓いを立てない人が不幸にならないとは限らないことも、この世で誰もが見聞きすることではないかと言います。つまり、人にとって自分の努力や精進が全く結果に関係ないことになるのです。彼は何事も突き詰めて考える人なのです。そして、彼は「これ程空しいことは無い」と言います。

 だからと言って、彼は何をしても同じだから、人は好き勝手にすれば善いと言うのではありません。彼は虚無主義者ではないからです。真剣に神を見上げ、御心を知ろうとしている人です。ですから彼にとっては、倫理的、社会的、宗教的に善い業を行おうとするのは、人であれば当然の事なのです。しかし、それが神の祝福の保証になるとその人が考えるとしたら、それは考え違いであり。いやむしろ、傲慢に過ぎないと知るべきだと彼は言います。確かに、この世で神に喜ばれると思う事をしても、神が祝福してくれないとしか思えない時があるのは事実です。確かにそうですが、問題はそれでは余りに空しいと考えてしまうことです。問題の根はもっと深い所にあるのです。

 彼は、その根、真実に気付かせる為に「死」に目を向けさせます。死は世の業の全てを空しいものにします。同じ結果にします。善い業を行っていてもいなくても、人は誰でも必ず死にます。善行を積み重ねても、悪行三昧の人生でも、その全ての結果が死という同じ結果になります。「犬」は中近東では汚れた蔑まれたものの象徴で、獅子は百獣の王、尊ばれ威厳あるものの象徴です。そんな犬でも、生きていれば死んだ獅子よりも勝ると言います。彼は、死は確かに一切を無にしますが、だからこそ、生きていることには何にも替え難い意味と重さがあるのだから。それに気付きなさいと言います。そして、だからこそ、人は今生きている間を楽しめばよいのだと言います。

 さて、彼がここで言いたいのは「この世で人は、何でもしようと思えばできる自由を持っています。でも、結果が自分の自由にはならない世界に生きていると知ることが大事なのです」ということす。確かに、人生には思いのままにならず、空しさを感じる事は沢山あります。しかし、神が自分に与えた人生なのです。それに、どんなに空しくても、人には自分に出来る範囲で出来る事をする自由が与えられています。それだけでなく、神は前向きに物事を判断する知恵も与えているのです。ですから、同じするなら、喜んで、気持ちよく飲食し、装って生活し、楽しめば良いと言います。でも、彼は単なる快楽主義者ではありません。神は人の行為の意図を汲んで、人が望む結果をもたらす方ではないと知っています。でも、神は人が喜んでする行為は受け入れる方だと信じています、主もマタイ7:8で「だれでも、求める者は受け、探す者は見出し、たたく者には開かれます」と言います。彼にとっても、神はそのように深く信頼できる方なのです。私達も彼が言うように、この世で愛する者と楽しく生きれば良いのです。自分が今を喜んで生きていられるなら、神が自分に人生の労苦の報いを与えていると感謝し、楽しみましょう。そして、これが大事な事ですが、彼のように、自分が神の御前にいることを真剣にそして謙虚に意識しましょう。そして前に言ったように、必ず来る死の時を意識していましょう。そうすれば、自分だけ良ければとか、今が楽しければといった享楽的人生にはなりません。彼は死んだら何もできない事、全ての事は生きている自分に神が与えた分と分かっています。だから、自分を真剣に見詰め、自分にできると分かった事は熱心にすれば良いと教えます。

 更に、神が御心のままに行うからという理由とは別に、努力が結果に結び付かない要素があると教えます。この世では、足の早い者が競争に必ず勝つとは限らず、強い者が戦いに必ず勝つとも限りません。更に、知恵があればパンに有り付ける訳でも、聡明だから富を得、知識があれば好意を持たれるのでもありません。神は、善い事も悪い事も等しく平等に全ての人に、その時々に与えているのです。時と機会は全ての人に平等に臨んでいる、と彼は教えます。とは言え、人は想定外の結果に喜んだり、落胆したりしています。こうすれば良い結果になり、こうすれば悪い結果になると人には分からず、それをしたり受け止めたりする以外にないからです。突然不幸に見舞われた、罠にかかってしまったと思うだけなのです。これは人なら誰もが持つ限界です。だから、これもまた自分の力ではどうにもならぬ事と見極めれば良いので、自分が生きていることを感謝し、前向きに生きればよいと彼は教えます。

 最後に彼は、ある賢人が、強大な王の攻撃から小さな町の人々を救った例を記します。知恵は強大な軍事力も打ち破る程素晴らしいものです。だが、その町の人々にすれば、勝利の為の一要素で、勝利には知恵だけでなく、知恵により動かされ、方向付けられる人々の働きが必要で、それが目に見える勝因になったからです。人々は賢人の知恵を侮り、偶然彼の言葉が当たっただけと無視しました。彼はこの例で知恵の素晴らしさを正しく評価する大切さを教えます。そうしないと空しさだけが残ってしまうと警告する為です。