メッセージ(大谷孝志師)

上辺だけの信仰でなく
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年7月5日
聖書 マルコ10:17-27「上辺だけの信仰ではなく」  大谷孝志牧師

主イエスが道に出て行くと、一人の人が駆け寄り、御前に跪いて尋ねました。必死さを感じます。彼は主に「永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたらよいか」と尋ねました。これはユダヤ人なら誰でも考えることでした。それなのに、何故彼はそんなに必死になってイエスの所に来たのでしょう。主が道に出る前の事に関係があります。主は、どこにいたのかというと、家の中にいました。そこに、人々が主イエスに触れて頂こうと子どもたちを連れて来たのです。弟子達は彼らを叱りました。何故かというと、弟子達は、離縁することは律法に適っているかどうかという問題について、主に尋ねていたからです。私達に置き換えると、主を礼拝し、静かに御言葉を聴いている所に、地域の人々が子どもたちも主の祝福に与らせ欲しいと連れて来たようなことが起きたのです。そんな事が起きたら素晴らしいと思いますが、有り得ないのが現実です。もし、起きたとしたら、私達も彼らのように、この大事な時に何て事をするのだと、頭にきて人々を叱り付ける事はしなくても、冷たい視線をその人々に送ってしまわないでしょうか。主はその弟子達を見て憤慨し、何て事をするのですかと弟子達を叱り付け、「神の国はこのような者たちのものです。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してこそには入れません」と教えたのです。人々が子ども達を連れて入って来たくらいですから、御前に跪いて主に尋ねた人もその家にいて、この「子どものようにならなければ、神の国に決して入れない」という主の言葉を聞いたのだと思います。彼はそんな事を考えたこともなかったのでしょう。何が何だか分からなくなってしまったのです。彼が「永遠のいのちを受け継ぐためには」と尋ねたのは、ユダヤ人にとって、それと神の国に入るとことは意味が同じだからです。主が「子どもののように神の国を受け入れなければ」と言ったのは、こどものような打算の無い気持ちで、無条件に受け入れるという意味だったのですが、彼は具体的に何をしたら良いかと条件を尋ねました。主の御心が分からず、主の言葉を自分なりに解釈してしまったからです。

 私達も主に願い事をする時、叶えて頂く為に何をすべきかと悩むことがあります。小さな子は無条件で欲しがります。だだをこねます。しかし大人は必要なものを手に入れるには対価が必要だと考え、どんな対価を払えば良いかと相手と交渉します。主は衣食を心配する人々にマタイ6章で「あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っている」と言い、「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられる」と教えました。「神の国と神の義を求める」は「御名を崇めさせ給え、御国を来たらせ給え、御心の天になるごとく地にもなさせ給え」という主の祈り前半の神の為の祈りに言い換えられます。主に全てを委ね、主が与えるものを感謝して受け取り、満足することです。必要なものは与えられる、いや与えられていると信じましょう。主はここで、自分が神の国にいると信じる者が神の国に入れますよと言っているからです。

 主は彼の「良い先生」という呼び掛けを聞き、彼がご自分が誰かを分かっていないと見抜き、良い方は神お一人の他、誰もいない、と言いました。主は、彼が形は跪いてはいても心から跪いていないこと、彼が形だけ上辺だけの信仰で満足していると主は見抜き、彼に気付かせる為に、永遠のいのちを受け継ぐ者になるには十戒を守れば良いと言います。すると彼は、少年の頃かそれら全てを守ってきたと胸を張ります。それなら何故、彼は自分が神の国に入れるかどうか不安だったのでしょう。彼は十戒を守っていると思うだけで、十戒を守るとは神を第一とすることだと分かっていなかったからです。

 だから、主は新しい命令を彼に告げました。それは驚くべきもので、彼のこれ迄の人生を根底からひっくり返させる命令です。永遠の命を受け継ぎたいと思って主の許に来た彼が、自分の願いを諦めるしかないと決意した程の命令だったのです。彼は決して高慢でも傲慢でもありません、懸命に神に喜ばれる者に成ろうとしていたのです。しかしそこに自分はこれだけのことをして来たとの自負があり、その自負が彼の目を曇らせ、一番大切な事を見えなくしていたのです。主は彼の心の内を見抜き、彼を愛をもって見詰め、慈しんでこの命令を告げました。「慈しんで」は「愛して」が原語なのです。

 私達も主に喜ばれると思って礼拝に来るだけでは上辺だけの信仰者です。私達は、親無しに生きていけないと本能的に感じている子供のように、主がいなければ生きていけないから主の御前に出て主を礼拝しているのです。主は彼に、神が全てである世界に生きていると分からせる必要があると見抜き、あなたに欠けている事が一つある。帰ってあなたの持っている物を全てて売り払い、貧しい人たちに与えよ」と命じました。主は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはすべて、それに加えて与えられ(マタイ6:33)」るとの信仰を彼に求めたのです。主は、神の愛と力を信じ、神を第一にすれば大丈夫と信じなさい。自分を含め全てを捨ててごらん。天に宝を持つ人になっています。その上で私に従って来なさいと、彼に言ったのです。

 しかし彼はこの言葉に顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ってしまいました。しかし私自身も含めてですが、自分の持ち物を全て捨てて、私に従えとの主の命令に応えることは自分にはできないと思うのではないでしょうか。様々な不安や恐れを拭いきれないからです。でも聖書は、富に頼らず神に頼ることが大事だと教えます。「宝のあるところ、そこにあなたの心もある(マタイ6:21)」からです。主は多くの富を持ち、主に頼り切れずに立ち去った彼を見て、「富を持つ者が神の国に入るのは、なんと難しいこと」かと言います。これを聞いて、弟子達は「それでは、だれが救われるか」と驚きます。彼らも神に頼り切れずにいたのです。主は彼らをじっと見て「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでも出来るのです」と諭します。しかし私達と神の国の間に厚い壁があります。この壁こそ、神に全てを任せれば大丈夫との信仰を持たせない力、罪です。だから主が十字架に掛かって死に、罪という壁を取り壊し、子供のように神の国を受け入れられるようにしました。だから私達は主を信じ、地上の神の国、教会にいます。感謝です。