メッセージ(大谷孝志師)
賢い人と愚かな人
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年7月5日
マタイ7:24-27 「賢い人と愚かな人」 牧師 大谷 孝志

 夕礼拝では山上の説教を通して御言葉を学んできた。今日の個所はそのまとめ。主イエスは人々に、ご自分が語る言葉を、聞いて行う者になって欲しいと願う。ルカの6章後半にも同じ主の教えがある。ルカでは建て方に重きを置いているが、マタイは建てた場所の違いに重きを置くが、主の教えの意味は同じと言える。両者とも、主の言葉を聞いて行う人が岩の上に家を建てた人に、聞いても行わない人が土台のない所、砂の上に家を建てた人に例えられているから。主は建てた場所や建て方の是非は、洪水がそれらの家に押し寄せてきた時にはっきりすると。この洪水は、人の人生を大きく左右する試練を暗示しているようにも、世の終わりの時に行われる最後の審判を暗示しているようにも見える。と言うのは、私達の順調な、普通の生活の中では、自分の生き方や生活の基盤を置いている場所が正しいのか、間違っているのかはなかなか分からないから。大きな試練に直面する時、死に直面する最後の時に、それが明らかになる場合が多いと言えるから。

 さて、ここで主が例えている人は、両者共、主の言葉を聴いていることが前提になっている。しかし、それを行うか、行わないかで、結果が正反対になると主は教える。私達も様々な時に聖書の言葉を通して主イエスの言葉を聴いている。主は「こうしなさい」「ああしなさい」と実行を求めている。そうすればあなたの人生は崩れることも壊れることもないと語り掛けている。そのように主は、御言葉の実行を人生の土台にせよと私達に教えている。何故、主はそう教えるのか。それは人は、他の様々なものを人生の土台にしたくなってしまうから。しかし、お金も、仕事も、人の評価も現実には儚く、移り変わり易いもの。それに比べ、主の言葉に聴き従うことを人生の土台にしていると、その人生は簡単には崩れなくなる。この土台はしっかりしていて、どんな洪水にも耐えられる土台だから。そういう素晴らしい土台があるのに、目先のことに囚われ、他のもの、砂の上に自分の人生を築き上げてしまう愚かな人になりやすい。だから主はこう教えている。

 ルカ16章に、ある金持ちとラザロという貧しい人の譬え話が。その金持ちは死後よみに落とされ、炎の中で苦しんで初めて、自分が世に生きていた時に、自分が聴いていた御言葉を軽んじていて、それに聴き従わなかったことを後悔した。

 では、岩の上に家を建てるのは、大変でそんなに難しいことなのだろうか。今は、大きな建築物の場合、地面に岩盤にまで届く長い棒を打ち込み、その上に土台を立てることは常識。岩の上に家を建てる人は賢い人で、砂上に家を建てる人は愚かな人と主が言うのは当然。でも自分の人生となると、砂の上に家を建てるような人がいる。砂の上の方が良いと考えるのは、簡単で安いから。岩の上に家を建てるのが面倒だから。安全な家を建てる為に岩盤にまで基礎を打ち込むのは大変な仕事。しかし岩盤目指し努力するのには、そうするだけの価値が。主イエスを目標にし、主のように生きることを目標にするから。主が目標になるから。

 主はそうする人を喜び、知恵と力を与える。直面する困難に負けない生き方ができるようにする。それだけではない。自分の思いをではなく主の思いを優先しているので、主ならどうするかと考えられる。自分がしたい事でなく、自分にできる事、しなければならない事を選び取る勇気が持てる。主の言葉を聴き過ごし、砂の上に家を建てるのと、主の言葉を聴いて実行し、岩の上に家を建てるのとでは天と地の違いが。私達も語り掛けている主の言葉を聴いて行う賢い人になろう。