メッセージ(大谷孝志師)

主に何を求めるか
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年7月12日
聖書 マルコ10:35-45「主に何を求めるか」  大谷孝志牧師

 今日の箇所には、人間臭さ一杯の出来事が記されています。マタイでは,この出来事はヤコブとヨハネの母が主に願い出ています。そしてマルコと同じく、主の受難告知と盲人の癒やしの間にこの記事が置かれています。どう考えても同じ出来事なのですが、願い出た人物が全く違います。ルカはと言う前後の記事は同じなのですが、これを削除しています。このように聖書には明らかに違うとしか思えない記事が他にもあります。しかし教会はその違いをそのまま認めてきました。ですから聖書の中に置かれ続けているのです。何故でしょうか。そこに人には分からない神の御心が示されていると信じるからです。人はその時々の心の状態で、書かれた事実の受け取り方が大きく変わります。神は読む人のその心の時々の状態に応じた御言葉を与える為に、人が見聞きして記した事をそのままにしているのです。マルコでは弟子達の、マタイでは母の心の底に潜むドロドロした思いが浮き彫りになっています。神は両方を通して、私達に自分の弱さを見詰めさせ、主イエス・キリストの十字架の意味、主に従うとはどういうことかを私達に考えさせているのです。

 ヤコブとヨハネは十二弟子の中でも、ペテロと共に重要な出来事の目撃者とする為に主が同行させた二人です。特別な存在でした。しかし彼らは自分達が特に主に選ばれるだけの理由が有ると思い込んでしまったのです。私達も、自分達は何の為に教会の一員であるのかを勘違いをすることはないでしょうか。世に生きていると、足りないもの、治したいと思うことは山程有ります。だから霊的、精神的、経済的に順調に過ごせるようになる為に教会にいるのではありません。主にとって私達が大切な一人一人だからです。主が私達を愛しているから、どんな時も主が見守っているからここにいるのです。

 主の一行はこの時、十字架の死が待つエルサレムに上る途上にありました。主が弟子達の先頭に立って行き、弟子達は驚き、付いて行く人達は恐れたと聖書に記されています。その異常な状況の中で、主は弟子達を側に呼び、最後の、最も詳細な3度目の受難告知をしました。二人が主に「私達が願うことを叶えて頂きたい」と願い出たのはその受難告知の直後なのです。二人は、主の言葉を聞いてはいても理解していません。聖書は私達に、御言葉を自分勝手に、自分に都合の良いように解釈している彼らを、自分に重ね合わせて考えさせ、自分自身を顧みる機会を与えています。彼らは自分達を弟子の中の最高位に就かせるようにと願いました。それなら私と同じ道を歩めますかと主は二人に聞き返します。すると、その意味をやはり自分に都合の良いように解釈します。マルコは主の側にいて主の言動を見聞きしていても勘違いした二人を通して、人が誰でも持つ弱さを浮き彫りにしています。私達も同様です。自分の理解、判断にいくら注意していても無理です。私達も弱い人間だからです。でも諦める必要はありません。私達には私達の信仰生活を正しく守らせてくれる強い味方がいるからです。御霊の助けを必要とする自分を自覚すればよいのです。謙虚に、誠実に主に従おうとすれば良いのです。

 主は弟子の中の最高位を求めたヤコブとヨハネに「お前達は自分が何を求めているのか分かっていない。私が飲む杯を飲み、私が受けるバプテスマを受けられるか」と聞きます。二人は「できる」と答えました。すると主は、彼らが求めることを叶えるのは私ではないけれど、彼らが求めることをすることになると彼らに言います。主が言っているのは「お前達は、望んだものを得るでしょう。しかしそれは御国での人としての最高位ではなく、世の人々の救いの為に受けることになる厳しい苦痛と苦難です」ということでした。しかし、この問答を聞いていた他の十人は自分達だけ偉くなろうとした二人に腹を立てました。彼らも同じ事を考えていたからです。彼らは皆、約二年半主と行動を共にしてきました、教えと奇蹟を目の当たりにしてきたのです。それなのに主の御心がまるで分かっていないと聖書は私達に教えています。

 人は誰も、主イエスを見詰めずに人を見てしまう傾向があります。主を思いつつ相手を見ると、相手に心を開いて接することができるのですが、相手だけを見たり思ったりしていると、相手に対して心を閉じてしまっています。自分という殻の中から相手の心の内を探り、勝手に推測してしまうからです。そして、勝手に疑心暗鬼に陥り、相手をこうだと決め付けてしまうのです。共に、一緒にではなく、自分や自分達がという思いしかそこにはありません。主は、その思いが二人と虜にしていると見抜きました。それでは群れととしての良い働きができません。ですから、主は彼らに弟子としての歩むべき道を示しました。彼らが互いに相手を尊重し、愛し合う仲間として、共に生きることが必要だからです。これは私達にとっても必要なことだと言えます。その為に主は、御自分が今まで、そしてこれからも行おうとすることを示し、彼らが歩むことになる道を教えました。主はこうしなさい、ああしなさいと言うのでなく、主は私に付いて来なさいと自分が模範になって下さるのです。

 主は叱り付けず、彼らを愛で包み込んでいます。それが私達が礼拝している主です。そして主は、彼らを御許に呼び寄せ、偉くなりたいと思っている弟子達に「異邦人の支配者と認められている者達は、人々に対して横柄に振る舞い、偉い人達は、人々に対して権力を振るっている。」と言います。今の彼らは自分を相手の支配者のように振るまい、相手を自分より下に見、虐げようとしているのだと教えます。だから、あなたがたは偉くなりたいと思うなら、神に偉い人だと認められるような生き方をしなさい。神に認めて貰いたければ皆に仕える者となり、皆の僕になりなさいと弟子達に教えたのです。

 自分の為でなく、相手の為に生きる者となりましょう。相手を自分のように愛しましょう。しかし、私達がそう生きるのを妨げる力があります。私達がその力に勝つ為に、主は「仕えられる為でなく、仕える為に、多くの人の為の贖いの代価として自分の命を与える為に来た」のです。主が命を捨てなければならない程、自分中心の生き方に、自分という殻に閉じ込める悪の力は強いのです。でも十字架の主を見上げるなら、自分に注がれている主の深い愛に気付くなら、殻から抜け出し主の懐に飛び込めます。互いの存在に感謝し、互いに愛し合う者になれます。その事を主に求める者になりましょう。