メッセージ(大谷孝志師)
私の人生誰のもの
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年7月12日
ルカ12:13-21 「私の人生誰のもの」 牧師 大谷 孝志

COVID-19の感染拡大が大都市圏を中心に止まらず、社会全体が不安定に。家庭の中なら安心できるかというと育児放棄や家庭内暴力事件も治まる気配がない。

 神は人を様々な苦難に遭わせる為に創造したのか。決してそうではない。人は神に象って造られた。これは姿が似ているということではなく、神と共に生きる者、神に受け入れられる者、神の性質を備える者として造られたことを意味する。だから、人は互いに愛し合って生きられる。互いに喜びを感じ合い、共に平和に生きることを望む。だから他人に対し、寛容に、親切にありたいと望む。そして、神はその為に、人に善意で接する力を与え、誠実に柔和に生き、自分を制御し、節制する力を与える。神は、人をそのような者として造り、愛し、支えている。

 しかし世の現実はどうか。多くの人は自分の力を頼り、ただがむしゃらに生きようとしている。「貧しく清く美しく」を理想論と片付け、「金はなくても愛さえあれば」という生き方を、馬鹿げた子供じみた生き方と決め付ける人も。主は、物があれば本当に安心なのかと、教えを聞きに集まって来た人々に考えさせた。

 安心は、心が休らう状態。マタイ11:28で主は「全て疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」言う。キリスト者は、何の為に礼拝に来るのか。聖書を読むのか、祈るのか。心を休ませ、安らぎを得る為、そして安心できるから。しかし信仰者であっても、自分の言葉が相手を傷付けたり、重苦しくしてしまうことがある。気を付けるべき。しかし、主を信じていると安心できる。主が豊かな愛を持って自分達を包み込んでいると知っているから。主がその豊かな愛を満喫できるようにと、十字架に掛かって死に、私達の罪を取り除き、心の目と耳が開かれ、物が大切なのではなく、神への姿勢が大事だと分かるようにされているから。仏教用語では安心をあんじんと読む。心をひと所にとどめて安住不動であることを意味する。聖書も、安心できる生活する為には、物が十分であれば良いのでなく、主が私の内に住み、私が主の内に住み、主との関係がしっかりしていることが大切と教える。「分け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな」という一休禅師の歌と伝えられている歌がある。「だからどの宗教も同じなのよ」と母の友人が言った。確かにどの宗教にも学ぶべき所は有り、相通じる所があるのは事実。しかし、本当に安心できる生き方は、主イエスが教える生き方、考え方。それはどんな生き方なのか。

 ある金持ちの畑が豊作だった。彼は安心し、「さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ」と自分に言う。しかし彼は絶望の中に叩き落とされる。何故そうなったのかを彼の言がに示す。私の作物、私の倉。私の穀物や財産と全てに私のが付く。私達も彼のように全ては自分ものと考えがちではないか。神は彼に「愚か者、お前のたましいは、今夜お前から取り去られる」、この世で生きる意味がないとの宣告。彼は安心を保証するのは、自分が得ている作物や所有している財産でなく、神であることに気付かなかった。自分が所有しているものが神のものと気付かなかった。
 これは、主イエスに教えを求めて来た人々だけでなく、この世に生きる全ての人々への厳しい警告。礼拝に集う一人一人もこの厳しい警告を自分への警告と受け止めよう。そして、礼拝を」聖書を読むことを、祈ることをもっと大切にしよう。神の前に豊かな者として生きる為に、まず「神の国と神の義を」求める者になろう。そこにこそ、私達が安心できる生活を送る者となれる神が示す道があるから。