メッセージ(大谷孝志師)

キリストが与えた自由
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年7月19日
聖書 ガラテヤ4:21-5:1「キリストが与えた自由」  大谷孝志牧師

 パウロは今日の個所でで、律法、奴隷の問題を取り上げています。現代の日本に生きる私達は、律法、奴隷という言葉を聞いてもピント来ないのではないでしょうか。聖書によく出てくる律法は、日常生活の中では全く使われないし、日本には奴隷制度は存在しないからです。実は、律法を逆に言うと法律です。日本に憲法を始め様々な法律があるように、律法は神がユダヤ人に与えた法律なのです。私達にとって法律は空気みたいなもので、普段の生活では殆ど意識していないと思います。しかしユダヤ社会では、律法は宗教的には勿論、政治的経済的にも人々を縛り付け、その束縛は私達の想像を超えるものだったのです。奴隷制度も同様です。ユダヤを支配していたローマ帝国の基礎を支える為にはなくてはならぬものだったのです。ここに出てくる女奴隷はハガルで、アブラハムの妻サラが自分に子ができないので、夫に与えたエジプト女性です。サラは自分の妻としての地位を保つ為に彼女を妻として与えたのです。女奴隷の彼女が産んだ子がイシマエルです。サラは奴隷でないので、自由の女と言う表現は当たっています。イシマエルが生まれた後、主は子が産めないと諦めていた九十歳のサラと百歳のアブラハムに子を与えると約束をし、約束通り生まれたのが自由の女サラの子イサクです。

 ここまでは旧約聖書の創世記の通りです。しかし、パウロは聖書に記された出来事には神が隠し示していた比喩的意味があると言い、その考えを記します。ガラテヤの諸教会の人々は、主イエスの兄弟ヤコブの所から来た人達に、律法を行うことによって神に喜ばれる者となれると教えられ、律法を守ることで救われると信じていました。しかしそれは神でなく、人の力に頼ることであり、悪魔が喜ぶことでした。主の十字架の贖いによって、神が自由を得させる為に罪から解放したのに、その自由を捨てて、悪魔の奴隷となることでした。それに気付かない教会の人々を、正しい信仰、人に真の自由を得させる福音信仰に引き戻そうとしている彼に、聖霊が示した解釈なのです。

 シナイ山はアラビア半島にあるモーセが律法を与えられた山です。パウロはこれを地上のエルサレムに当たると言います。ユダヤ教徒はエルサレムをシオンと呼び、そこに住む者に神が救い主を与えると信じていました。しかしエルサレム教会がユダヤ教的信仰から抜けきれず、主イエスを信じれば救われるという福音を信じる群れになれないでいたのです。彼は、エルサレム教会を律法主義の牙城シナイ山と呼び、この教会の人々を罪の奴隷となっていると言ったのです。これに対し上にあるエルサレムがあると彼は教えます。それは目に見えない、私達が使徒信条で告白する「聖なる公同の教会」です。彼はシリアのアンティオケア教会に遣わされて伝道旅行をしました。しかし私達もそうですが、地上のどの教会に属していても、聖なる公同の教会に属しています。彼もその教会の一員として主に遣わされ、キリストの福音を宣べ伝えたのです。彼は、自分が伝える福音を信じる人は約束の子供として神の祝福を受け、律法に縛られない自由な人として生きられる、と教えました。

 今日の箇所は、私は今、あなたがたと一緒にいて、口調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れている、と言う彼の心境と深く関係しています。主は行き詰まっている彼に律法についての示唆を与えたのです。ですから彼は、エルサレムから来た人々は、律法を守れば救われると教えるが、その律法が、自分は神の民を奴隷にして、神から引き離そうとする罪の奴隷になってしまったと呻いる。でも彼らはそれを聞き取れないのだと言います。

 神は何故、モーセを通して律法を与えたのでしょう。神の民であるユダヤ人が罪人だったからです。彼らが罪を犯して滅ぼされない為に、してはならない事、すべき事を神が示したのが律法です。神は人を、与えた自由意志と力に任せたのです。しかし人は自分の力で罪に勝てませんでした。パウロ自身がローマ7章で「私は、内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対して戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。私は本当に惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と呻いています。しかし神は、人を律法に縛られたままにせず、神の民として自由に生きられるように、御子を世に与え、御子の十字架の贖いにより、古いイスラエルは死に、主イエスを信じる人を新しいイスラエル、新しい人として生まれさせたのです。その人は上にあるエルサレムである聖なる公同の教会、キリストの体であり、私達の母である教会の一員となります。向島キリスト教会はその地上における現れである個別教会です。

 教会は主が自由を与えた人々の群れです。アブラハムもサラも高齢で、妊娠は到底望めない体でしたが、神が、彼らから男の子が産まれると約束した通りにイサクが生まれました。そのように、人は自分の力で律法を守ることで神の民となり、神の恵みと祝福を受けられなくても、神の恵みと祝福を信じるなら、神の民とすると神は約束したのです。人は主を信じるなら、神の民となることができます。27節はイザヤ54を、自分の力で将来を確かなものにできないと悲しむ旧約世界に生きる人々を、神が恵みによって、つまり主イエスを信じる信仰によって、確かな人生と将来を与え、人が喜んで生きられるように神が約束したと感謝する喜びの歌と彼が解釈したものだと言えます。更に、イシマエルもイサクをからかっただけ、サラのハガルを追い出してと言う言葉もサラの肉の思いから出たのです。彼はそれを用いて、人の意図はどうあれ、神は人の全ての言動を用いて御心を行う方と教えているのです。

 主を信じて救われた人は、自分の力によってでなく、その御心に全て任せれば良いのです。自分の力で正しく生き、神に喜ばれる人になろうと頑張っても疲れるだけ、パウロのように罪の律法の奴隷になっている自分の惨めさに押し潰されるだけです。主は私達に自由を得させる為に十字架に掛かって死んだのです。彼は「再び奴隷の軛を負わせようとする力に負けてはいけません。主の十字架の死が無駄になります。私が伝えた福音に堅く立って生きて下さい。そうする人を神は喜び、豊かな恵みを与えます」と勧めます。私達もこの生き方が出来ます。主が私達に自由を与え、私達は自由だからです。