メッセージ(大谷孝志師)
喜んで主に従う
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年7月19日
ヨハネ12:20-26 「喜んで主に従う」 牧師 大谷 孝志

 「祭りで礼拝の為に上って来た人々の中に、ギリシア人が何人かいた」とある。祭りはユダヤ教徒にとって最も大切な過越の祭。その日は主イエスが子ロバに乗ってエルサレムに来た日。シュロの聖日。ギリシア人達が十二弟子の一人のピリポの所に来て、イエスに会わせてと頼んだ。11章に死んで四日目のラザロを、主が生き返らせた奇蹟が書かれている。大勢のユダヤ人がイエスに会う為だけでなく、そのラザロを見る為に来ていた。主に会いたいとピリポに頼みに来たのはその中にいたギリシア人。主は彼らに会い、自分の死によって何が起きるのかを話した。

 主イエスに出会い、直接話を聞いたのが誰であったかは記されていない。正に歴史に埋もれた名もない人々。しかし、彼らの人生はこの時大きく変えられたのではないかと私は思う。私も主イエスに出会って人生が大きく変えられた一人。それ迄は孤独や死を恐れていた。しかし、主がいつも共にいること、永遠の命を与えられていることが分かってからは、不安や恐れから解放された。この方に従った生きていれば安心と思えるようになったから。ギリシア人達は主イエスが十字架に掛かって死ぬ前だから会えた。では、私はどうして会えたのか。主イエスが過去の人だったら会えなかった。主イエスが今も生きていて、全ての人と共にいるから私も会えた。そして主イエスを救い主、私の主と信じて喜んで生きている。

 さて、主は彼らに「人の子が栄光を受ける時が来ました。」と言った。彼らは、そんな事を突然言われて驚いたと思う。その彼らに、主は自分を一粒の麦に例え、死ぬなら、豊かな実を結ぶと言う。主の死により、主イエスを信じる人に永遠の命が与えられる道が開かれるから。主は、私達が主のように生き、そして死ぬことによって豊かな実を結ぶ者となる為に十字架に掛かって死んだ。しかし主イエスは死んだままではない。「わたしに仕えるというのなら、その人はわたしに付いて来なさい。わたしがいるところに、わたしに仕える人もいることになります。わたしに仕えるなら、父はその人を重んじてくださいます」と主は言う。主が過去の人だったら、やはり仕えることはできない。主は死んだけれども、復活して今も私達と共に生きているから、私達は従える。そして、主は私達を支え導き、教会生活を実りあるものとし、私達を喜んで主に仕える者としてくれる。感謝。

 私達は礼拝する為に教会に来る。主イエス・キリストを礼拝している。その主が、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります」と言う。なぜそうなのか。人が、神のものであるのに、神に敵対する悪の力に支配され、悪のものになっているから。例えば、「したい事をして良い」と言われたら、自分を犠牲にしたり、大事な自分の物を捨てるより、他人にして貰いたいとか、欲しい物を手に入れることを考える。自分が悪の力、罪に支配されているから。だからその自分を許容せずに、むしろ嫌悪感を持てと主は言う。私達は誰を礼拝しているかを常に意識していよう。自分が主の愛に包まれ、支えられていると分かるから。私達は主が支配する御国にいる。それが分かると、自分の大切なものを捨て、自分を犠牲にして人に仕えることが何でもないことに。主に会う前には考えられなかった生き方ができ、それが何にも換えられない喜びになる。主に従って生きることこそが私達の喜びの源。この世は主のものだが、主はこの世を真にご自分のものにしようと働き続けている。その主と共に歩もう。主は私達を喜びで満たす。喜んで主に従う者になろう。