メッセージ(大谷孝志師)

知恵を正しく使おう
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年7月26日
聖書 伝道者10:1-20「知恵を正しく使おう」  大谷孝志牧師

 この書を書いた伝道者は知恵について深く探求し、懸命に真理を見出そうとしています。探求の結果、知恵は人生を豊かで確実なものとするし、武器に因らなくても、敵に勝ち、社会秩序を整える力があると知りました。しかし彼はこのように知恵の素晴らしさを知っても、同時にどんなに豊かな知恵の持ち主でも、平安で幸いな人生を楽しめるのではないことも知ったのです。

 何故でしょう。人が万能でも完全でもないように、知恵もまた万能でも完全ではないのです。聖書が私達に教えるのは、神の知恵のみが万能で、完全だということです。だとしても、人は神が行う御業の始まりから終わりまでを見極めることができないという現実があります。神が何の為にしているかが人には分からないので、ただ神が行うことを受け止め、受け入れる以外にないのです。この知恵に溢れた伝道者でもそう認めるしかなかったことを、この書を読むと分かります。それが人の現実なのです。しかしそうであっても、人はこの世で生きていくからには、より良い生活を願います。実現しようとします。ですから、人は自分の限られた知恵によって、善か悪か、損か得か、役に立つか断たないかの全てを判断しながら生きていきます。しかしそこにも問題が生じます。人には良い事を優先させようとする良心があります。でも同時に、誘惑に自分の心をを向けさせ、自分がしたい事、好きな事を優先させる悪い心もあるからです。ですからこの伝道者は苦闘し続けます。

 ですから人は知恵を正しく使おうとすることが大切なのです。彼は香油に落ちて死んだ蝿が香油全体を腐らせ、悪臭を放つように、知恵は僅かな愚かさであっても、本来の良さを簡単に失ってしまうと教えます。愚者は知恵の悪い面を巧みにうことができます。悪知恵です。悪知恵を使ってしまう人は自分は頭が良いと思っています、知恵はこう使うものだと考えています。しかし愚かな人です。でも自我や自尊心が強く、逞しさすら感じさせます。人は知恵を正しく使えず、その時の自分の思いのままに判断し、行ってしまうのです。馬鹿げた事を悪くない、正しい事と思っています。これも悪です。 しかし、多くの人が知恵を用いて正しく安全に生きようととしているのも事実です。彼は挙げる穴を掘ること、石垣を崩す工事をすること、石を切り出すこと、木を割ること、それらは日常生活の為の仕事でした。斧が鈍くなった時、人は刃を研ぐことによって危険を回避し、安全に仕事ができるようにしています。知恵には、人に物事を安全に行える正しい方法を見つけて対処できるようにさせ、災難ではなく、利益を得られるようにする力があるからです。しかし、蛇がまじない係らず、蛇使いに噛みつくなら、彼は益でなく害を受けるように、知恵が良いものあっても、知恵は実際に使わなければ何の益にもならない、知恵は持っているだけでは駄目だと彼は言います。

 更に、知恵には人の弱さ、不完全性から来じてしまう行為や結果に翻弄されない為のブレーキ役、統制役になる力もあるのです。この伝道者が読者に一番求めたいのは、持っている知恵を正しく使う者になることだと言えます。

 伝道者は「私は、私より前にエルサレムにいた誰よりも、知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た」言います。そして知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとしました。それが空しいことだと知ります。私達とはレベルが全く違う人だと感じます。彼は知識が多くなれば悩みも多くなり、知識が増せば苛立ちも増していったようです。それでも尚、彼は得た知恵と知識をもって真実を探求し続けました。しかし全ては空しく風を追うようなものだったのです。しかし彼はそのむなしさにまけていません。彼は空しい人生の間、あなたの愛する妻と生活を楽しむが良いと言うからです。彼はその時々に自分が得たもので楽しめば良い、今が良ければそれで良いと言います。正に悟りの境地とも言えます。ですが彼は、過去や将来の事を考えず、ただ現在の瞬間を充実させて生きればよいとし、一時的な快楽を求めようとする刹那主義者ではありません。彼はどこまで行っても、今を大切に生きるにはどうしたら良いかを真剣に追求している知者、賢者なのです。だからこそ、彼は空しいと言いながら、葛藤を続けます。彼は知恵の限界と役割を知っているから、そこから逃れられないのです。彼は言います。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。…しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない」と。彼は、神が人に御心のままに知恵と知識と喜びを与えると知っています。その上で、彼は人の無力さを謙虚に認めます。知恵には限界が、人にも自分の心の赴くままにしか生きられない弱さがあるからです。ですから人は神の御前にひれ伏すしかないと教えます。

 彼は人の弱さ、愚かさを諦めません。何故なら、人は神に与えられた知恵を正しく使い、配慮し合い、他の人を喜ばせる生き方が出来るからです。怠けると天井が落ち、手を抜くと雨漏りするように、確かにその為の努力は必要です。そして人は努力出来ます。神は人が楽しく、喜んで生きる為に様々なものを与えているからです。神はその実現の為に、人を前向きに努力させる知恵も与えています。しかし彼は人には努力は出来るけれど、その前に克服しなければならない事があると言います。知者、賢者でも人である限り、ストレスを感じ、人を呪いたくもなるし、内緒話をして鬱憤を晴らしたくもなるからです。ストレスをためるのは体にも心にも良い事ではありません。でも必ず暴かれます。主も「あなたがたが暗闇で言ったことが、みな明るみで聞かれ、奥の部屋で耳にささやいたことが、屋上で言い広められるのです。」とルカ12:3で言っています。ですから、悪口を言わず、人に誠実さを感じさせる生き方をしましょう。確かに難しいと、できないと思ってしまうことです。しかしやはり主は言いました。「それは人には出来ないことです。しかし神は違います。神にはどんなことでもできるのです。(マルコ10:27)」私達はその神を信じているのです。伝道者の言葉は辛辣です。真理を厳しく突いているからです。でも暖かさを感じさせられます。彼は世の全ての物事をその神との関係において見ているからです。私達も神が与えている知恵を正しく使いましょう。そして嵐吹く時もあるこの世で、神の御前に喜んで楽しく生きましょう。神がこの生き方ができる者とする為に私達をここに招いているからです。