メッセージ(大谷孝志師)
命の重さを考える
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年7月26日
ヘブル4:12-16 「命の重さを考える」 牧師 大谷 孝志

 今から60年近い昔の話だが、都立高校には珍しい聖書研究同好会があり、私がクリスチャンになったと伝え聞いた先輩が入会を勧めに来た。その会に行くと3年生が10人近くいるだけだったが、ヘブル人への手紙を熱心に学んでいた。バプテスマを受けたばかりの私にはとても難しかったが、先輩達の聖書に取り組む真剣さに大きな刺激を受けたのを思い出す。正直、その当時はこの御言葉も何が何だか分からなかった。しかし信仰生活を続ける中で、この御言葉によって自分自身を厳しく見詰められるようになったと思う。

 聖書は誰でも読める言葉で書いてあるが、誰でも神の言葉が聞ける訳ではない。私も多くの場合、昔に書かれた言葉として読み過ごしてしまうことが多かったと反省している。私達は様々な形で聖書により神の言葉を聴く。礼拝で読まれる聖句を通して、祈祷会等の集会でのメッセージ、或いは兄姉の証で用いられる聖句を聞いた時に自分への御言葉として聖書の言葉が響くことがあり、勿論、一人聖書を読んでいる時にも、心に神の言葉が響くことがあるのではないか。

 なぜか。神は私達の心の内まで探り知る方であり、私達の弱さ、足りなさを知ると共に、なすべき事、しては生きないことを教え、神の民、主の僕として正しく生きる者となることを私達に望んでいるから。だから神は、御言葉によって私達に働き掛けている。その働きは、御霊、聖霊の働きと言い換えることができる。御霊は遠く離れた場所にいるのではない。神は私達と共に、私達に内にいる。神の御言葉は、生きているとこの手紙の記者は言う。人の言葉は人から発せられた後、聞いた人の心の中で生きて何か影響を与える力はない。発した人の思いを聞いた人が理解することで何か生まれるかも知れないが、言葉自体が生きて働くのではない。しかし神のことばは生きていて、力があるので、神のことばを聞く者に神の祝福を与え、無視する者に裁きを下す。この神の言葉はヨハネが言うロゴスとしての言葉ではなく、礼拝等で読まれ、聞かれる聖書の言葉、メッセージや証の中で引用される聖書の言葉。だが、書かれた文字のことではない。書かれた文字は人から発せられた言葉と同じで、それ自体が生きていて、力があるのではない。聖書の言葉は人の心に入る時、生き生きと力強く働く。信じて聞く時、人の言葉が神の言葉としてその人の内で力を発揮する。「両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができ」る。そして人の心の深みに隠されているものをその人に明らかにする。だから、自分の生き方を吟味、反省させられ、自分の本心はこうだったのだ、こう生きるべきだったと、はっとさせられる時がある。それ迄思ってもみなかった事に気付かされる。厳しさに落ち込む時もあるが、ホッとし、喜びに満たされる時も。だから主イエスを信じて生きるのは素晴らしい。

 主イエスを信じていても、弱く愚かで、間違いを犯しやすい。でも、隠そうと汲々とする必要はない。隠す事自体が無駄。神の目には全てが裸でさらけ出されているから。私達は生きている、主が私達を憐れみ、命を与えている、主に愛されているから。イザヤも43:4で「わたしの目にはあなたは高価で尊い」と言う。これを神の言葉と信じて聞こう。その時、自分を自分の目で見ず、主の目、主の思いで自分を見よとの御言葉が心に響く。そして自分が生かされていることの重さを、命の重さを知る。世に生きている事を感謝し、力強くこの世を生きよう。