メッセージ(大谷孝志師)

本当に必要なものは
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年8月2日
聖書 マルコ10:46-52「本当に必要なものは」  大谷孝志牧師

 私達はこの世界に生きています。それは生きる上で十分な状況にいるからです。空気、水、食物があるから生きていられるので、それらが無ければ駄目です。その他にも数多くの物が有るから生きていられます。しかし聖書は、私達人間はそれらが有るから生きていられるのではないと教えています

 「イエスが弟子達と多くの群衆と一緒に」とあります。彼らは主と一緒に旅を続けています。弟子達は家、家族、仕事を捨てて主に従いました。群衆もほぼ同じです。私達が必要だと思い、所有しているものを捨てて主に従いました。でも彼らは死んでいません。それだけでなく私達以上に生き生きとしています。主イエスを含め、彼らも人間です。食物、それを買う為の金も必要だった筈です。主が活動を続けられたのは、ガリラヤではカペナウム、ユダではベタニアに主の一行を支える経済力を持つ人々がいたからと考えられます。弟子達は自分の物は捨てました。しかし、神は多くの助け手を与えて彼らを養って下さったのです。私達も自分の持ち物に頼らなくても、それらを捨てても神が助け手を与え、養って下さるから大丈夫と安心しましょう。

 さて、一行がエリコの町を出ると道端に人々から物を貰って生きていた人テマイの子のバル(子)ティマイが座っていました。彼は弟子達のように自分から捨てた人ではありません。自分の力で働いて収入を得られず、必要なものを得るには物乞いをしなければならなかったのです。彼はナザレのイエスがいると聞いて「ダビデの子のイエス様、わたしを憐れんでください」と叫び始めました。ユダヤ人は神がダビデの子孫の一人に油を注ぎ、メシア・キリスト(救い主)として立て、イスラエルの為に国を復興するという約束を信じていたからです。彼らそして彼も、ナザレのイエスがそのダビデの子と考えていたのです。ですから、彼が憐れみを求めたのは、金や物が欲しかったからではありません。自分が自分らしく自由に生きられるように視力を回復させて欲しいと願い、主の憐れみを求めたのです。

 彼は、視力が戻ればあれもこれもできると思っても、自力では戻せません。私達も変わりたいと思っても、自分の力では無理だと諦めていることはないでしょうか。でも、諦めきれないと思ったり、どうしても変わらなければと思う時、主のことが心に浮かびます。そして主なら自分を変えられると思い、主に願うこともあります。勿論自分や他の人には出来ないと分かっていますから、主に願います。彼も主に可能性を見出し、主に期待したのです。でも、するのは主です。だから、彼もイエスに憐れみを求めたのです。イエスならできると信じたからです。これが大事なのです。イエスにしか頼れる方はいないと信じたからこそ、彼は叫び続けたのです。彼の心が真っ直ぐに主イエスに向いているのです。周囲の人達は彼を黙らせようとしました。でも彼は諦めなかったのです。自分にできるのはこれしかないと分かっていたからです。私達も自分や家族の事、教会や兄姉の事で主にしかできないと思ったら、憐れんで下さいと一途に主に叫び求めましょう。主は必ず応えてくれます。

 主は立ち止まり、叫び続けるバルテマイを呼べと言います。主が彼の求めに応えたのです。彼を黙らせようとした人々とは対照的です。しかし彼らは、主の言葉によって彼の側に立ち、彼の思いを共有し、態度が大きく変わりました。彼に「心配しないでよい」と優しく語り掛けたからです。人は、自分と主との関係の中だけで相手を見ると相手が邪魔と思うがあります。だから、相手と主との関係の中で自分を見るようにしなさい。そうすると相手を自分のように愛せるようになると聖書は教えるのです。自分と相手の前に主を置き、共に主の前にいるという縦と横の信仰関係を持つことが大切なのです。

 バルティマイは主に呼ばれたので、上着を脱ぎ捨て、躍り上がって主の所に来ました。背広を着たまま清掃や草取りはしないと思います。汚れるからというより活動的でないからです。ユダヤでは、上着は昼は外套、夜は毛布の役をする生きる為に必要な物でした。だから上着を質草にとっても良いが夕方には返さなければなりませんでした。上着を脱ぎ捨てたのは、少しでも早く主の許に行きたかったこともあるでしょうが、彼が人に与えられたものによって生きる人、上着により自分を守る人から、主によって生き、主に守られる人、上着を脱ぎ捨てられる人に変わったと聖書は教えているのです。

 「自分にとって得であったこのような全てものを、キリストの故に損と思うようになった」パウロのような価値観の転換が彼にも起きたのです。信仰は時にこのような奇跡を私達にも起こします。主は、彼が自分にはどうしようもできない自分の状況を変えるのはこの方以外にないと信じ、一途にご自分に求めている彼の信仰を見抜き、彼の願いを叶えることにしたのです。この信仰が大事です。そして「私があなたに何をすることをあなたは望むのか」と聞きました。ここには二つの主語があります。癒すのは主、望むのは彼だからです。私達も「望むのは人、実現するのは主」をしっかりと心に刻み、信仰生活を続けましょう。自分の信仰生活が確かなものになっていきます。

 彼は「先生、目が見えるようにして下さい」と言います。彼は主が癒やせる方、自分の求めに応える方と信じました。しかし、主はそれ以上のものを彼の内に見たのです。だから主は「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言いました。「見えるようになれ」ではありません。主は彼の内に素晴らしいことが起きているのを見抜いたのです。彼はしっかりと主イエスに繋がっているのです。自分では気付かなかったが、自分にとって一番必要な事実が起きているのです。それが先ず、彼がすぐに見えるようになったことによって現れました。彼は、目が見えるようになればあれもこれも出来ると思っていたでしょう。しかし、彼がした事は思っていた事とは違いました。彼は、道を進む主イエスについて行ったのです。マルコは主が進む道は十字架への道であることを既に明らかにしています。彼もその道を進んだのです。彼は霊的に開眼したのです。彼はイエスが救い主、私の主と知りました。彼は、主に従うことで本当の自分として生きられると知ったのです。「見えるようになり」はその意味も含んでいるのです。だから彼は主に従ったのです。

私達も主にしっかりと見えない主に目を注ぎましょう。主に従いましょう。