メッセージ(大谷孝志師)
キリスト者として世に生きよう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年8月2日
ピリピ4:4-9 「キリスト者として世に生きよう」 牧師 大谷 孝志

 パウロは「キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」と言う。ピリピの教会とパウロの関係はとても親密だったと考えられている。しかし人の群れである以上、問題が無かった訳では無い。純粋な動機からでは無く福音を宣べ伝える者がいたり、「犬ども」と厳しい口調で警戒せよと呼び掛けなければならない人々もいた。2章は「もし〜があるなら」で始まっている。これは「もし翼があるなら」とか「もし透明人間であるなら」と言うように有り得ないものを持っているとしたらという夢を描くような話しを彼はしているのではない。「あるのなら」という疑問を投げ掛ける言葉ではなく、「あるのだから」と彼らにあるという確信をもって語り掛けている。

 「あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることに共に携わってきたことを感謝している」と言うように、ピリピの教会の人々の信仰、教会生活に彼は深い信頼を寄せている。その彼らにしても、主に与えられているものを十分に生かし用いていないと感じるところがあったのだと思う。彼が「キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら」と勧めるのは、この教会の人々の中にも、利己心や虚栄心から相手を見下したり、無視したり、注意を払わなかったりするという彼の目から見て不十分なところがあったから。あるテレビドラマで、女性が恋人に「私はあなたにとって何なの」と呟くシーンがあった。相手の気持ちが分からなくなった時、こう聞く時がよくある。女性は悲しみの中で姿を消し、男性は意味が分からずたたずんでいた。このような気持ちが陰にこもったまま、子供が独立、夫婦二人きりになり、夫が定年を迎えた後、離婚に発展した熟年夫婦のドラマもあった。心と思いが一つになれない、どう努力しても平行線だと感じざるを得ないのは辛い事。キリスト者も人間だから互いに欠点や短所はある。だからこそ、自分のことだけでなく、相手のことを真剣に考え、注意を払おうと心掛ける事が大切、そうすれば教会が一つになっていくと彼は教える。彼がこう勧めるのは、彼らがキリスト者になったのは、教会に招かれたのは、福音を宣べ伝え、世の人々が救われる為だから。その為には彼らが同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いが一つになこと事が必要だから。何と同じになるのか。自分のようになれとパウロは言うのではない。キリストと同じ思い、キリストと同じ愛の心を持てと言う。彼はキリストの思いを持てと、キリストはどんな方かを当時の賛歌を用いて教える。信仰の目をもって十字架のキリスト、高挙のキリストを見上げよ、徹底的に自分を無にして、私達の為に生き、死なれた主を模範として生きよと教える。その主に自分を投影し、教会の兄弟姉妹の為に、世の人々の為に生きよう。人を見るのでなく、キリストのみを見上げよう。キリストの私への愛を見ることは大事だが、それだけでなく、他の人に十分な注意を払っていない私をしっかりと見詰めよう。

 私達が十字架の主に自分の生き方を見ることが出来るなら、私達の心と思いが、主と一つになれる。互いに本当のキリスト者として教会で、この世で生きられる。「イエス・キリストは主です」と私達も告白している。十字架と復活の主、私達の全てを知り、必要なものを与え、助け導く主。主は私達をキリストの体である教会の部分部分として大切にし、主に相応しい者として、教会で、この世で生かす。主に全てを委ね、キリスト者として生き生きと自分の人生を生きていこう。