メッセージ(大谷孝志師)

全てを見通す主
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年8月9日
聖書 マルコ11:1-11「全てを見通す主」  大谷孝志牧師

 11章からは主イエスはエルサレムとその周辺での活動が記されています。「エルサレムに近づき」とありますが、この言葉によってマルコは、主の十字架の時が近付いていることを強調しています。主はエリコの町を出て、オリーブ山の麓にあるベテパゲかベタニアに来ました。主がそこで二人の弟子に誰も乗ったことのないろばを引いて来るように命じました。聖書にはどちらかと書いてありませんが、エルサレムにより近いベテパゲと考えられます。

 主は、その村に繋がれている子ろばがいること、それが誰も乗ったことのない子ろばと知っています。更に村人達に注意されることも、どうすれば人々に許してもらえ、弟子達が引いて来られるかも知っているのです。マルコに限らず福音書は、主イエスが透視や予知の能力を持つと教えています。今日の個所でも、主がこれから起きる事を二人に知らせ、その通りになりました。イエスは人の心の内もこれから何が起きるかも全てを見抜き、見通しているのです。この事を信じるかと聖書は私達に問い掛けています。パウロも看守に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と教え、全てがその通りになりました。彼は主イエスがご自分を信じる者をだれでも、そのままで、信じるだけで救われると信じていました。

 聖書は様々な出来事を記しています。それらは人が見聞きした記憶に基づいて記されたものです。ですから、以前も言いましたが聖書の記事には確かに多くの異同があります。しかし、それらはパウロが二テモテ3:16で言うように、全て神の霊感によるものなのです。違いがあるのは、私達が信仰生活の中で様々な場面、状況に置かれるからです。同じ事でも、人によっても受け止め方が違います。主がその場面や状況にどう判断したら良いのかの指針を与え、私達の信仰の成長に必要なものを与える為なのです。また、聖書はこの世の常識を越える主の姿を記します。私達はそこに主の真実な姿、主の力と権威が記されていると信じましょう。それにより、私達も「すべての良い働きに相応しく、十分に整えられた者と(IIテモテ3:16)」なれるからです。

 二人は主が言った通りの言動をし、その通りになりました。私達は主を信じているようで信じていないことは無いでしょうか。主は「信じる者には、どんなことでもできるのです(9:23)」と言いました。エリサベツも「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです(ルカ1:45)」と言いました。全知全能の主、万物の創造者の主が、信じる者にはできると言うのです。信じ続け、求め続けましょう。主イエスが約束しているのですから。

 さて、弟子達二人が子ロバを引いて来て、自分達の上着を掛けると、主イエスはそれに乗りました。すると、多くの人々が自分達の上着を道に敷き、他の人達は葉の付いた枝を野から切って来て敷いたのです。これは、Ⅱ列王9:13にある、主に油を注がれ王とされた者への敬意を表明する行為でした。人々は、イエスが旧約のゼカリア9章に預言されていたイスラエルを復興する為に神が与え、エルサレムに入城させる新しい王と考え、歓迎したのです。

 マルコはこの多くの人々がエルサレムから出て来たとは記しません。ガリラヤから主に付いて来た人々と考えるのが順当です。彼らはイエスがエルサレムに入る時「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に」と叫びました。これは、エルサレムに巡礼に来た人々に祭司が語り掛けた歓迎の言葉でした。主イエスに付いて来た人々は、この言葉を使って、主イエスが神によって立てられた王としてエルサレムに入る喜びを表したのです。しかし子ろばに乗ってエルサレムに入る主は、十字架の死に向かっていたのです。しかし、人々はイエスがエルサレムに入ることにより、神が約束したダビデの王国が復興される時が来ると思い、感極まって叫び続けていたのです。

 主はエルサレムに着き、神殿に入りました。不思議なことに、これ以降、同行者としての群衆は登場しません。エルサレムを出る時は十二弟子のみが同行しています。群衆は主の周りに確かにいます。12:27には「大勢の群衆が、イエスの言われることを喜んで聞いた」とあるからです。更にユダヤ教の指導者達がイエスに手を出せなかったのも、群衆がイエスを崇敬してたからで、主に質問し、主の答えを聞く中で、主を捕らえ、殺害する機会を狙うしかありませんでした。主の周りにいる群衆が無視できない圧力を指導者達に掛けていたのは明らかです。しかしマルコは主の群衆への反応を全く記しません。主は、同行の群衆が自分の進む道に上着や葉の付いた枝を敷いても、黙々とエルサレムに向かうだけです。マタイが都中が大騒ぎになったと記し、ルカが、主が都に近付いた時、都の為に主が泣いたと記したのと対照的です。

 主は黙々と神殿に入り全てを見回り、夕方になるとベタニアに出て行き、そこに泊まります。静寂そのものです。主は群衆の歓喜の叫びの奥にあるものを見抜いているのです。この後、群衆はゲッセマネの園にいる主を剣や棒を手に捕らえに来た人々として登場し、最後に主を「十字架につけろ」と叫びます。マルコは、全てを見抜き、人の心の奥底を知るからこそ、父なる神に従い、全ての人の為に黙々と十字架への道を歩む主を描き出しています。

 心に留めなければならないのは、主は人の心を知ってもその心を一方的に変えることはしないということです。どうするかは人々に任せる方なのです。10:17-22に多くの財産を持つが、主に「持ち物を全て売り払って貧しい人に与え、その上で私に従え」と言われ、悲しみながら立ち去った人の話があります。主は彼に言葉を掛けて従うよう働き掛けていません。讃美歌 243にも「見詰めつつ、なげく」とあるだけです。また、ヨハネ13:27で、主イエスを裏切ろうとしているユダに「止めなさい」と言わず「すぐしなさい」と言いました。ルカ22:32で主は、ペテロの信仰が無くならないように祈り、立ち直ったら兄弟達を力付けてやりなさいと言いますが、彼が主を否定するのを知りながら、彼を振り向いて見詰めただけでした。冷たい方なのでしょうか。主は私達の全てを、心の底まで見抜き、主は私達の全てをご存じの上で、私達の全てを受け入れているのです。私達は主にとって大切な一人一人です。主は広く、深く、大きな愛をもって私達を包んでいるのです。私達はその主の前にひれ伏し、主の愛に全てを委ねれば良いのです。主を信じましょう。