メッセージ(大谷孝志師)
裁かずに主に感謝
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年8月9日
ローマ14:1-12 「裁かずに主に感謝」 牧師 大谷 孝志

人は誰もが自分の主義を持つ。その主義で自分や他人の言動を判断したり、評価したりする。しかし人は自分の基準を絶対的基準にしてしまうことがある。パウロはここで、人はそれぞれが持つ主義を尊重するよう教えている。と言うのは、主義は生まれや育ち、自分に大きな影響を与えた人や本、出来事と密接な関係を持ち、自分が正しいと思っている生き方。しかし、それが他の人にとっても正しいと考え、その基準で判断、評価してしまう傾向が。そこに大きな問題が生じることがあるから、ここで、自分と意見が違う人を裁いてはいけないと彼は教える。

 パウロは一つの例として菜食主義者と自由主義者の衝突を取り上げる。ローマにある教会の中には、ユダヤ教の律法遵守の姿勢を色濃く残す人々がいて、その中に肉を一切食べない人々がいた。彼らは、偶像に捧げられた肉が市場に出回ることがあり、それを気付かずに食べてしまう危険を避け、野菜類だけを食べた。それに対し、自由主義者は全ての食物は主が造り、与えたものだから、何を食べても差し支えないと考えた。衝突が生じたのは、自分達が正しいと思う事を相手に押しつけようとしたから。パウロの言い方を見ると両者とも力づくで強制したのではないようではあるが、菜食主義者は相手を信仰的ではないと裁き、自由主義者は相手を形式的信仰の持ち主だと軽んじていた。決して善いことではない。

 パウロは自分が正しいと思う事をしていれば良い。そこに留まるべきで、人に強制してはいけないと言う。しかし人は弱い。悪いと思ってもしてしまうこともある。また、皆が好き勝手なことをしたら、秩序がなくなる。教会は信仰共同体。共通項、一本の筋が通っていなければ共同体とは言えない。とは言え、特定の人やグループの主張が支配的になったり、競合してしまうと教会らしさ、共同体としての素晴らしさが失われる。だからパウロは共に成長出来る道を教えている。

 色々な考え方の人々が、ここが自分の居場所と感じ、ホッと出来る所が教会。

もし、皆から無視され、裁かれていると感じたら、到底居場所とは思えない。受け容れられていると思えば場所と思える。とは言え、間違っていると思い、教会に相応しくないと思う人を受け容れるのは難しいが、教会はそれが出来る場所。それが出来るから教会、キリスト者。相手も自分も、神が受け容れているからここにいるとの前提に立ってみよう。一緒に神の国にいると思えばそれが出来る。

 しかし私達は所詮人間。厭だと思う相手とは一緒にいるだけで疲れを感じる。自分が出るか相手が出るかと考えるとことろまで行く場合も。でもそれを主は喜ばない。この教会をここに建てた主はパウロもピリピ2:2で言うように「同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてほしい」と願っている。その為には私達の言動を主に献げよう。先ず、自分なりにこれは主に喜ばれると信じ、主に感謝をもって行えば、必ずいつかは周囲の人に分かって貰える。その為には、自分が正しいと思っている事が本当に主に喜ばれるかどうの吟味が必要。礼拝、集会を大切にするだけでなく、聖書を読み、祈り、主と霊的に交わる時を大切にしよう。自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従おう。自分の生活を主に献げよう。私は主のものという自覚を持って生きよう。主が十字架に掛かって死に、復活したのは、私を主のものとし、私に主に喜ばれる生き方が出来るようにする為と信じ、感謝しよう。主はここにいる。人を裁かず、主に愛され、受け容れられている者同士として、共に主を礼拝しよう。