メッセージ(大谷孝志師)

真の自由を味わう
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年8月16日
聖書 ガラテヤ5:2-12「真の自由を味わう」  大谷孝志牧師

 月に一度、ガラテヤ人への手紙を通して、初代教会の人々の信仰を学んでいます。ガラテヤの諸教会の人々は、シリアのアンティオキア教会から派遣されたパウロという伝道者が伝えた福音を信じていました。「福音」は今の日本でも、良い知らせ・グッドニュースという意味でよく使われます。キリスト教で言う「福音」は、「この世界を創造した父なる神が、悪が支配するこの世から私達を救い出す為に、御子キリストを与え、御子の贖いの死によって罪が取り除かれる道を開きました。イエスを主、救い主と信じるなら、誰でも救われ、永遠の命を与えられ、キリスト者になれます。そして、日々恵みと平安を与えられ、神の子として生きられるのです」という知らせです。

 パウロがこの手紙を書いたのは、諸教会の人々が「福音」から急に離れたからです。エルサレムの教会から来た人々に、昔から伝えられてきた規則、律法を守らなければ神に喜ばれる者になれないと教えられ、彼らの言う通りだと思ってしまったのです。この手紙が彼が書いた他の手紙に比べて厳しい言葉が多いのはその為です。パウロは彼らの教えは御心では無い、福音ではないとはっきり言います。なぜでしょうか。人には律法全体を守り切ることなど出来ないからです。と言うのは、律法は私達が考える法律とはその重さが格段に違います。律法は、自分達の神が守りなさいと命じたものなので、それを一つでも破ると、その人は神に背いたことになってしまいます。神は人の弱さを知るからこそ、厳しい規則で縛り付け、守らなければならないと肝に銘じさせたのです。神は二千年の間、自分の民が正しい道を歩めるようになるのを待ち続けましたが、人々は律法を守りきれませんでした。しかし、神は自分が創造した人々を愛しているので、御子を世に与え、御子である主イエスを信じるなら救われる道、恵みの道を全ての人の為に開いたのです。そして伝道者を遣わし、その道を知らせました。人は誰でも神の恵みを戴き、共にいる神に守り導かれる生活が出来るように、神自身が御子の十字架の死という犠牲を払ったのです。だから良い知らせ、福音です。勿論、人がしなければならない事はあります。それは主イエスを信じることです。誰でも主イエスを信じるなら、その信仰によって救われ、神の子となれるのです。

 エルサレムの教会から来た人々は、神に義と認められよう自分の行いを正しい者にすることが必要だと教えました。パウロは、もしその事が必要なら、その人は主の十字架は要らない、神の恵みは要らないと言っているのと同じなので、自分は気付かないが、キリストから離れ、恵みから落ちているのだと教えます。この諸教会の人々が主イエスを信じるだけで救われることに不安を感じたのは、私達人間の内に救いの確証はないからです。だから神は人に信仰を求めるのだと言います。私達も日常生活の中で、確証が有る無しに関わらず、信じることをしています。可能性が無くても、必要だと思えば、誰でも期待をします。自分に出来るとは思えなくても、人生を確かなもの、有意義なものにしたいと思い、そうなると信じて生きているのだと思います。
 パウロは、自分が義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいると言います。「待ち望む」も素晴らしい言葉です。神がしてくれると神に期待すること、神に自分の将来を任せ、神に委ねることだからです。そして嬉しいことに、その信仰を神は喜び、望みを実現してくれるのです。

ガラテヤの諸教会の人々は、パウロが伝えた福音をかつて信じました。彼はその時のことを、「十字架に付けられたイエス・キリストが目の前に描き出された」と言い、7節でも「あなたがたはよく走っていたのに」とも言います。彼らは、折角信じて救われたのに、惑わし、邪魔をして真理に従わないように働き掛けてきた人々が与えた僅かなパン種、サタンの囁き、誘惑に負けてしまったのです。しかし彼はこの諸教会の人々を見捨てていません。彼らが正しい福音信仰に立ち返ることを諦めません。主が自分と教会の人々を愛していると確信し、主が諸教会を正しい道に引き戻すと信じるからです。

 人は法律があるから安心してこの世で生活出来ます。しかし世界には民族抗争や麻薬組織により無法地帯と化し、人々が悲惨な状態に置かれている国々があり、逆に法律に基づいて人権を無視した行為を行う国々もあります。日本でも今、症状があってもPCR検査を受けられない人は、規則でそうなっているからで、法律、規則は両刃の剣です。ユダヤでは律法という規則が健全な社会を維持する為に大きな役割を果たしていました。人は規則がなければ、自分の好き勝手に生き、相手を自分の支配下に置こうとし易いからです。それでは人は相手を大切にして安心して共に生きられません。神はそのような者として人を創造したのではありません。ですから、神は先ず神に喜ばれ、神の民と認められる生き方をその民に教え、他人と共に生きる為の正しい生き方を教え、実生活における細々とした規則を与え、それらを守るよう命じたのです。パウロは律法学者でしたから、その律法を守ることこそ神に喜ばれると教えられ、信じていました。本当の事が分かっていなかったのです。ですから、律法を守れば救われるのでなく、主イエスを信じれば救われると宣べ伝える主イエスの弟子達を、神を冒涜していると迫害していたのです。

 しかしパウロは、復活の主に会い、神は、主イエスを信じる者をそのままで救うと知りました。彼は自分の行いによって神に喜ばれる者になろうとするのは間違いで、ただ主イエスを信じ、御霊に助けられるなら、知恵と力を与えられ、その結果、律法を守れる者になれると知ったのです。信じること、神に頼り、神に全てを任せて生きることの素晴らしさを知ったのです。彼は律法の呪縛から解放され、自由になりました。しかしこの教会の人々は、ヤコブの所から来た人々に信仰をかき乱されたのです。これを放置したら、彼らはキリストの恵みから離れ、神の恵みを脇に捨てるような生き方をして、神を悲しませたままです。彼がこの手紙で彼らに語り掛けたのは、神が彼らの為に用意した正しい信仰生活に引き戻したいと願うからです。彼は、大事なのは神が昔与えた律法を守ることではなく、神が今、主イエスを通して与えた愛の戒めである新しい律法を守り、神に喜ばれる者になることだと教えます。それによって人は真の自由を得て、日々喜んで生きられるからです。