メッセージ(大谷孝志師)
祈り続けよう
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年8月16日
ルカ11:1-13 「祈り続けよう」 牧師 大谷 孝志

 今日の個所を見ると、弟子の一人が主イエスが祈り終えるのを待ち構えていたように「私たちにも祈りを教えてください」と言った。高一の時、初めて聖書研究祈祷会に出席し、そこで祈っている人達の姿を見て、自分もこのように祈れたらと考えたのが、真面目に教会に行くようになった動機。最初に教会に行ったのは、母が教会に行くように勧めたから。次は、余り真面目ではない求道者の私をクリスマス会へと誘った時の一年上の高校生の笑顔。その日の夜の燭火礼拝で見た老婦人の顔の輝きに惹かれ、クリスチャンになれたら同じようになれるかなと思い始めた。最後の一押しが祈祷会で熱心に祈る同年代の人達の姿。彼も主の祈る姿に感動し、自分も祈りたいと思い、祈りを教えてと主に願ったのだろう。

 祈ると言えば仏壇の前で手を合わせるくらいしかなかった私にとって、彼らが祈る姿は強烈な印象を与えた。私も彼らのように祈りたい、彼らにそうさせている力を知りたいと真剣に考えた。主はその弟子に「祈るときにはこう祈りなさい」と言い、主の祈りを教えた。祈祷会に出席し始めた私は、最初は、自分の番になっても祈れなかった。何をどう祈ったら良いか分からなかったから。祈祷会は主の祈りをもって終わるので、それを暗唱することで祈りに加わっていた。祈れなかった一番の理由は誰に祈っているのか分からなかったから。神様、イエス様と呼び掛けても、どんな方か分からず、言葉だけが空しく響いていると感じたから。

 主はこの祈りを教えた後、一つの譬えを語った。なぜなら、言葉だけを並べても、それでは祈りにならないから。彼らも心から神と話をし、神の存在を自分の心で感じられるようになってほしいと主は願い、どんな思いで祈ったら良いかをこの譬えで教えた。私達は主の「求めなさい。そうすれば与えられます」との教えを信じ、祈り求め続ける。私は、涙を流して何時間も祈り続けたけれど、その祈りが聞かれなかったという経験をしたことがある。私に限らず、誰もが求めても与えられない経験をしている。だからこそ、主はこの譬えを通して祈るとはどういう事かを弟子達に、そして私達に教えている。「ある人の所に旅行中の友達が来たが、何も出す物がないので、別の友達を叩き起こして「友よ、パンを3つ貸してほしい」と頼んだ。彼は断った。しかし友達だからという理由ではなく、しつこく頼み続けたので、彼は起き上がって来て、その人に必要な物を与えた。

 神は私達を愛しているから、天の父と呼んで良いという方だから、必要なものを与える方だからと期待して求めると与えられる訳ではない。祈りは金を払って対価を求める行為ではないから。「人事を尽くして天命を待つ」と言うが、祈りは人事を尽くすことで、人に出来るのは祈ることだけだと知ろう。だからこそ祈り続けよう。主の「求めれば与えられる」との御言葉を信じて祈り続けよう。神を叩き起こすような思いをもって祈り続けよう。その思いで祈り続けるのは、私達が主にしか頼れないことを主に告白していること。だから、私達が「主よ、私達に愛を注いで、力を示して、状況を変えて下さい」と心を込めて、主に期待して祈り続けるなら、主は私達に恵みと平安を与える。私や相手の状況や状態を変えることが出来るのは主イエス・キリスト以外にいない。主は全てのものの主。

 祈りが叶えられないのは、私達に何かが足りないからではない。主が私達が変わるのを待っているから。人や物、自分に頼らず、ただ主に頼り、主に自分を明け渡して祈る者となるのを、私達が自分を主のものとするのを、主は待ち続ける。