メッセージ(大谷孝志師)

神が共にいる幸い
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年8月23日
聖書 伝道者11:1-12:1「神が共にいる幸い」  大谷孝志牧師

 パンを水の上に投げたら、水に溶けて無くなるのは常識です。伝道者は何故か、ずっと後になって、あなたはそれを見出すと言います。ですからこの例えは物理現象を言っているのではないのは明らかです。これは「しても無駄だと思っていても、してみなさい。するのとしないのでは大きな違いがあります。してみるならば後になって、その結果を必ず知ることになるから」という教えなのです。それだけではありません。人生は将来何が起きるかは人には分かりません。しかし将来がどんなに不確であろうとも、人はその将来に期待しつつ、様々な事をしながら生きていなければならないからです。

 彼がどんな意味で「パンを水の上に投げよ」と言ったのかについては二つの解釈があります。一つは「投げよ」の原語は「送れ、送り出せ」なので、海洋貿易への投資の勧めとする説です。一つはアラビアの類似した教訓に、「慈善をし、水の上にあなたのパンを投げよ。いつの日か、あなたはそれを見つけるだろう」があり、施しの勧めとする説です。投資の場合は利益を期待して行うので、水でふやけたパンを見出しても何にもなりません。ですからここでは、見返りを期待せずに行う慈善を意味していると考えられます。箴言19:17にも「貧しい者に施しをするのは主に貸すこと。主がその行いに報いてくださる」とあります。人が犠牲を払って相手の為に良い事をするなら、神はそれを見ていて、消失させず、空しい結果に終わらせることはない、良い行為は自分にも相手にも役立つと彼は教ているのです。しかし、これは伝道者らしくない楽観主義と言わざるを得ません。どんな良い行為も悪い結末になることがあるという彼の教えには合わないからです。しかし、2節の将来何が起きるか分からないから、対象を特定せず広い範囲に与えていれば、自分に良い結果を与える相手も多くなるという言葉は、彼が単なる楽観主義者でなく、実利を、そして自分を大切にする人であることを示しています。

 次に彼は、農作業を取り上げ、人という限界の中でなすべき事を教えます。人は天候の変化から自然災害を予測し、それに適した作業を行っています。しかし自然は神の御業です。人が自由に出来るものではありません。そこで必要なのは、人は自分を通し神が御業を行っていると信じることです。あれかこれか、どちらが成功するのか、或いは両方共うまくいくのかは、分からないのですから、自分のすべき事を忠実にするしかないのです。神が支配する世界の中では、人は自分に出来る事、良いと思う事を精一杯、しかも誠実に行うことが最善なのです。神がこの世の一切を御心のままに行い、そこに人が関与する余地はありません。神が将来何をしようと思い、今何をしているのか、全て人は知ることは出来ないのです。そしてこれが、彼が真剣に、真摯に、この世で行われる一切の事について知恵を用いて、その意味、理由、目的等を探り出そうとした結果なのです。彼がどんなに探求しようとしても、彼は人間という限界の中でその行為をするしかなかったからです。人は神ではないので分からないのです。彼は全ては空しいとしか言えなかったのです。

 確かに、この世に起きる事、自分が体験する事の意味や理由が分からず、空しさを感じてしまうという経験を私達もすることがあります。でも彼は、その空しさに負けなくて良いと言います。なぜでしょうか。この世も人も神が創造したものだからです。彼は「光は心地よく、日を見ることは目に快い。人は長い年月を生きるなら、ずっと楽しむが良い」と言います。それは「神のなさる事は、すべて時にかなって美しい」からです。伝道者は神が世界の全てを支配しているというこの世界の本質をしっかりと捉えているのです。だから、人は見る事、経験する事が快ければ、つまり、自分が光の世界に生きていると感じられるなら、先の事がどうなるだろうかとか、過去に何かしたからだろうかとか、理由や原因を考えず、それを楽しめば良いと言います。そんな事をいくら考えても、人には正確なことは解らないからです。正に余計な事なのです。勿論、「だが、闇の日も多くあることを忘れてはならない」と言うように、悪い事、厭な事も当然あります。しかしそれもまた神のなさる事なのです。だから、受け容れれば良いと彼は言います。彼は「若い内に楽しめ、若い日にあなたの心を楽しませよ」と言います。好き勝手な事をして、若さを満喫しろと言うのではありません。全ては神が見ているからです。ですから、神が全ての事においてあなたを裁きに連れて行くと知った上でしなさい、と彼は言います。人は神が見ているのを忘れてはいけないのです。

 「修行」という言葉があります。10節は、人が心と身体を痛めつけて、欲望を断ち、正しさを全うしようとすること、「修行」の空しさについて、彼が教える言葉です。それらは自分に頼ることだからです。若さ、青春の中で起こる全ては、空しいものに過ぎないのです。では、その空しさの中に埋没しているしかないのでしょうか。しかし考えてみて下さい。人は世に生きている限り、自分の言動によって他の人に何らかの変化を起こさせています。だから何をしても無駄と諦めて、何もせずに埋没している訳にはいきません。勿論、自分が意図した通りにはならないし、逆の事が起きる場合すらあります。でも、生きている以上、人は何もしないではいられないのです。しかも、将来どんな災いが起きるか自分には分かりません。それに自分の人生はただ一度だけの人生です。生まれ変わって、赤ちゃんの時からやり直すことは出来ません。だからこそ、将来は御心次第で何が起きるか分からないと知り、自分に出来る準備、用意をしておくように、と彼は2節で言ったのです。

 その準備、用意こそが「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」ということだと伝道者は教えます。私は16歳で主イエスを信じ、受浸し、17歳で献身しました。しかし自分と自分の将来について自信たっぷりで、希望に溢れていた私は、自分の人生を自分で何とかしなければとしか考えませんでした。伝道者が言う「空しさ」を感じられずに生きていました。でも今は、主が全てを支配し、守り導いていたからこそ、今の私があると認め、自分と世界の全ては自分に判断出来ないという現実を認め、全ては空しいと認められるようになりました。全ては創造者なる神の御手の内にあると認めるのは素晴らしいことです。人生を安心して歩み続ける為の最高の秘訣だからです。