メッセージ(大谷孝志師)

御心のままに行わせる神
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年8月30日
聖書 ピリピ2:1-18「御心のままに行わせる神」  大谷孝志牧師

 今から50年前、日本キリスト教団川崎新生教会に神学生として奉仕していた私は、その教会の女性と結婚しました。その教会は1970年の学園紛争のさなか、大学院も正式に修了していなかった私を伝道師として招聘し、私は教師としての歩みを始めました。仕事は水曜夜の祈祷会のメッセージと中高生の指導育成でした。その年の10月に修士論文を書き上げ、修士号を得ると、生活の為に配送トラックの助手や資生堂の出向社員をして、収入を補いました。事情があり、妊娠した妻の実家で「ますおさん」暮らしをしていたので、生まれてくる子の為にも必要だったからです。同盟の教師として働きたいとの願いを主が聞き届けて下さり、同盟総主事の紹介で、宮城県の岩手県境にある錦織教会に、付帯事業の園長兼任の牧師として翌年4月に赴任しました。

25歳でした。職員は全員年上、謝儀は園の給与の1/7でした。当然、職員からは「先生は園長として来たのか、牧師として来たのか」と聞かれました。妻は都立保育園の保育者でしたが、私は保育経験ゼロです。土曜の午前中までは園長で、午後から週報を作り、説教準備をする生活が続きました。奏楽者もいなかったので奏楽し、司会の言葉を聞きながら頭の中で説教をまとめることが何回かありました。でもその中で、高校生と看護学生、そして執事の妻と、私の母がバプテスマを受け、救われるという恵みを味わえました。母の場合は、妻が亡くなった後、二人の子を抱える私を助ける為、柏から助産婦を辞めて手伝いに来ていました。しかし自分には支えきれないのを感じ、主に助けを求めて受浸しました。主に自分を委ねるしかなかったからでした。

 30歳前に、当時の登米郡保育所協議会長に選ばれ、二年後に県保育所協議会副会長に選まし。若さだけが取り柄の私でしたが、貴重な経験をさせて頂きました。しかし二足の草鞋生活に疲れを感じた私は、牧師一本の生活を主に求め、行き先を決めずに、教会総会で辞任を認めて頂きました。退路を断ったのですが、見合い説教に行った教会から断れました。しかし主は、大阪池田市の池田バプテスト教会が牧師として招聘するよう働いて下さり、その招聘を受け就任しました。36歳でした。ある執事に「私達は相談出来るような年の牧師が欲しかった」と言われ、別の執事には「先生の説教は短くて解り易いが、心にストンと落ちるものがない」と言われました。しかし、夫婦で出席する人々が多く、青年会、婦人会、壮年会も充実し、受浸者も毎年のように与えられました。無牧後だったので、祈祷会がありませんでした。夜の祈祷会と昼の聖書に親しむ会を始め、夜には10名程の、昼も5名程の出席者が与えられました。また、ある事を機に礼拝欠席者に、週報と説教原稿を配布し、毎週約150㌔をバイクで走り回わりました。若かったのです。十数年後に教会に行った時、その中の一人が教会に戻り、役員をしていました。主は労に報いて下さると感謝しました。錦織と池田の二人の信徒が献身、今も牧師をしています。弱く、間違いを犯し易い私の全てを知る主は、私を赦し守り導いて下さいました。その主に導かれ無我夢中で過ごした21年でした。

 これまでの歩みを振り返ると、「神は御心のままに、あなたがたのうちに働いて、志を立てさせ、事を行わせてくださる方です」との御言葉が真実だと言えます。神は私に志を立てさせ、私に関わる全ての人を用いて私が御心を行えるように全てを整えて下さっていました。日本基督教団は補教師検定試験に合格し、教区総会の議決を得た者でなければ招聘できないのですが、バプテスト系の牧師が私を伝道師に招聘するよう教会に働き掛け、招聘させました。妻の未信者の両親は私の収入を心配しました。でも、必要な物は主が備えて下さるとの私の言葉を信じ、結婚を許してくれました。都会暮らしの妻も一番近い駅から車で40分、バスだと1時間半、友達もいない過疎地域の田舎町に、生後二ヶ月の乳飲み子を連れて生活することに「不平を言わず、疑わずに」決断し、付いて来てくれました。「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい」との御言葉が響いたのだと私は思っています。眼下に北上川を望む高台の教会、リンゴ畑と水田が広がる田園地帯に教会が建てられたのも、主が人々の内に働き、志を立てさせ、事を行わせて下さったからです。昔、宣教師がこの地に来て、ここに教会をと主に願い、福音の種を蒔き、教会が出来ました。この村出身の牧師が疎開して来て伝道し、友人の村長がクリスチャンになり、村有地を無償で教会に寄付、牧師館付きの礼拝堂が建てられ、保育事業を委託され、保育園が出来、牧師の生活が支えられるようになりました。主は常に生きて働き、全てを整えて下さる方です。

 赴任した私は、この地の人々に福音を伝える為、卒園児がいる教会学校に力を注ぎました。クリスマスには聖誕劇もし、車で2時間近くの所の森郷キャンプ場での部会中高生キャンプに、子供達も参加するようになりました。しかし辛く苦しいことも多く、青年が転会して喜んだものの、数ヶ月後に先生にはついていけないと去りました。キャンプで受浸を決心した女子高生が、両親に墓は位牌はどうすると言われたのでと、教会に来なくなりました。その中でも、主が支え続けて下さり、世の光として輝き続けたことは感謝です。

 聖書を読むと、偉大な伝道者であるパウロも努力や苦労を積み重ねたことがよく分かります。彼は、その努力も労苦も無駄ではなかったことを、キリストの日に誇ることができると言います。その事を知るからこそ、彼は常に喜び、絶えず祈り、全ての事に感謝出来たのだと思います。そして土の器に過ぎない私も、主の「世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」との御言葉を「いのちのことば」としてしっかり握りしめることが出来たから、牧師として働き続けられたと感謝しています。私を救われた十字架と復活の主が、パウロの言葉を通して私に「恐れ戦いて自分の救いを達成するよう努めよ」と命じています。私も弱く愚かな罪人です。だから恐れ戦きます。でも主は、努めれば救いを達成出来るとの約束の御言葉も与えているのです。自分が世の光として輝く為に生かされていると信じ、自分の救いの達成に努めながら、救いの喜びを証し続ける者を目指していきます。最後に讃美歌138の2,5節を読みます。「我が為十字架に悩み給う こよなき御恵み量り難し 涙も恵みに報い難し、この身を献ぐるほかはあらじ」