メッセージ(大谷孝志師)
愛するということ
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年8月30日
Tヨハネ3:18-24 「愛するということ」 牧師 大谷 孝志

 愛は人を変える力を持つ。一途な愛は、自分や相手を大きく変えることがある。神学生時代の同級生が難攻不落と思われた女性を一途な愛で押し切り、結婚した。人を愛する時、自分も変わっていくが、相手も大きく変えられていく。

 キリスト教は愛の宗教と言われる。愛、神の愛を人間関係の基本に置くから。愛の無い教会の交わりは考えられない。教会の中で何か問題が生じた時、互いの間にある壁を取り除き、心が通じ合う思いを持たせ、問題解決へと向かわせるのも、互いの心の内に愛があるから。この愛をキリスト教では「アガペー」と呼ぶ。私達は愛を主イエスの言葉から学ぶ。主は「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」との戒めを与え、相手を愛することを人間関係の基本に置くように命じた。私は教会に来て、自分を愛するように相手を愛する愛があると知った。教会の人々が主の愛の戒めを実践し、自分と相手を同じように大切にし、配慮し合っている姿を見て、新鮮な驚きを感じた。長所も短所もあり、完全な人間の集まりではなかったが、その姿を世間では見ることができなかったから。彼らは、十字架に掛かって死ぬ程に自分達人間を愛した主イエスのように、相手を愛するよう教えられ、自分より相手のことを第一に考え、大切にしていた。
 私は教会に来て初めて、人から自分が無条件に愛されていることを知った。学校の友達と一緒にいても何か不安を感じてしまうのに、教会にいると、ここは自分が安心して一緒にいられる場所と感じられ、嬉しかった。彼らの愛が私の人生を変えたと言える。勿論、彼らを人を愛する者に変えたのは主イエス。とは言え、教会でもこの世と同じように、どんな人でも愛するということは難しいのは事実。

 自分は主イエスから、同信の友から愛されているのに、どうして自分はこの人を愛せないのかと思うと、悲しく辛くなる時も。しかし、この人は愛せないとは言えないので、愛している振りをしてしまうことがある。自分は主イエスを信じていないのかと、自分の信仰を疑い、自分を責めてしまうことすらある。ヨハネは「愛せない、愛していない」と自分を責めなくて良いと教える。何故なら「神は私たちの心より大きな方であり、すべてをご存じの方だからです」と彼は言う。神は全てを知るとは、私達にとって良い知らせ。できない、弱く愚かな私達でも、神は神の子として世に生かしている。神がどんな方かを知らせる人として用いている。言葉や口先だけで、つまり、愛している振りをしなくても良いので、しようと思えば私達は愛せると彼は教える。聖霊が私達に与えられ、聖霊が助けるから、私達は行いと真実をもって愛せる。愛そうと思えば愛せる。そして愛せることによって、聖霊の助けと神の子として自分が神の国に生きる実感できる。彼が言うように「自分が真理に属していることを知り、心安らかでいられる」のだ。

 私達は、日常の信仰生活の中で無意識に人を愛している。愛せている。だから、聖書は私達が意識して人を行いと真実をもって愛そうとせよと勧める。意識的に愛そうとすることによって、私達は自分の弱さを知り、御前に謙虚に、そして相手に謙遜になり、聖霊の助けを必要とする自分を実感できるから。聖霊の助けで御心を行い、神に受け入れられ、愛されている自分実感でき、心穏やかに生きられる。愛することで自分も相手も変わり、神の民として共に生きられる。主イエスを信じ、キリスト者として教会の交わりの中で生きることは本当に素晴らしい。