メッセージ(大谷孝志師)

教会を祈りの家に
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年9月6日
聖書 マルコ11:12-26「教会を祈りの家に」  大谷孝志牧師

 主イエスは泊まっていたベタニアからエルサレムに向かう途中、空腹を覚えたとあります。1:14で「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である」と言ったヨハネは、1:1で「ことばは神であった」と言いました。十字架に掛かって死んだ主は、お腹が空けば食べ物を求める私達と同じ人間でもあったと今日の個所は教えています。その事を考えた私の心に、ピリピ2:6-8の「キリストは神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」の御言葉が響き、そこ迄も私達を愛し、私達の罪の為に命を捨てられた主の姿が浮かび、主に感謝しました。

 さて、葉の茂ったいちじくの木を見つけた主は、実を見つけようとします。しかし葉だけで実はありませんでした。実の成る季節ではなかったからです。すると、主はその木に「今後いつまでも、誰もおまえの実を食べることがないように」と言ったのです。次の日、主と弟子達がそのいちじくの木を見ると、その木が根元から枯れていました。ペテロは昨日の主の言葉を思い出して「先生、…あなたが呪ったいちじくの木が枯れています」と言いました。

 この「いちじくの木を主が言葉によって枯らした奇蹟」は、受難週に主が行った唯一の奇蹟です。更に言えば、福音書の中で主が唯一呪いにより行った奇蹟です。主はこの奇蹟によって、大切な事を弟子達に教えました。実を求めても実が無かったこのいちじくの木で、主は神がエルサレム神殿を、神の民イスラエルをどう見ているかを教えたのです。ですからマルコは、記事の間に「宮清め」と呼ばれる出来事を置き、それらの後に、祈りについての教え置いて、神に喜ばれる者になるにはどうしたら良いかを教えたのです。

 当時のエルサレムは高い城壁に囲まれ、13:1で弟子の一人が言ったように、宮も荘厳な姿をした素晴らしい建物でした。しかし主は、どんなに豪華な建物でも、巡礼者で賑わっていても、その内実は、実りのない空しいものに過ぎないことを、主は自分の空腹の機会を用いて知らせたのです。主はこの出来事で、イスラエルの民の形骸化した信仰を糾弾したのです。翌日その木が、今後実を結ばないだけでなく、根元から枯れてしまったのは、将来神の裁きがエルサレムに下り、都が原形を留めない程に破壊尽くされるとの予言です。主はかつてレギオンという悪霊の集団が二千頭の豚に入るのを許し、豚を湖で溺れさせました。イチジクの木も豚も命有るもの、神が創造したものです。しかし神は、御心のままに命を奪う権威有る方と聖書は教えます。この木がどうでも良いから枯らしたのではありません。イスラエルの民、そして私達の罪に満ちた現実を知らせる為の犠牲として用いたのです。神は御子イエスも、私達を救い、神の子とする為に十字架に掛けて殺しました。神にとって、私達一人一人は掛け替えのない重さを持つ者である、と心に刻みましょう。

 主イエスは宮に入ると、商売人達を追い出し、両替商の台や鳩を売る者達の腰掛けを倒し、商人達が宮を通るのを禁じました。それは宮は「あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」べきものなのに、商売人や宮の責任者達が、それを「強盗の巣にしてしまった」からです。彼らが本当に強盗だった訳ではありません。ユダヤ人は宮に来て犠牲を献げ、自分達の罪を赦して貰わなければ、神に裁かれると信じていました。その犠牲は傷の無い清いものでなければなりません。傷が無いことの証明を宮の祭司が与えるので、その証明料が祭司達の収入源になりました。更に献金するお金も宮で通用するお金で無ければならず、両替が必要で、両替手数料の一部を祭司達に収めていました。宮の責任者達は、それらの商売人や両替商達の収益の一部を収入源とする自分達をイエスが強盗呼ばわりするのを聞き、イエスをどのようにして殺そうかと相談しました。マルコはその理由を、群衆を教えで感動させる主を恐れたからと言い、彼らが、自分達が宮がその役目を果たせないようにしていたことに気付いていないことを暗示しています。聖書はこの宮清めを、私達に自分達の教会の現状への警告として聞くことを求めています。神殿の責任者達も商売人達も神を礼拝する場所である宮を自分達の生活を維持する場所として使っていました。私達は教会で生活を維持する為の商売をしてはいません。でも自分の心を落ち着かせる為、自分の信仰を成長させる為等、自分の為にも教会に来て、主を礼拝し、祈ります。そこに問題があるのでしょうか。

 主がいちじくの木が枯れたのを見た後、弟子達に信仰と祈りについて教えたのも、神の宮、教会が真に祈りの家であるには、必要な事があるからなのです。私達は何の為に教会に来るのでしょう。主を礼拝する為です。何故礼拝するのでしょう。私達は主の民、主の羊だからです。礼拝は大牧者である主の恵みと祝福への応答、感謝の場です。何より教会は祈りの家だからです。私達は必要な何か、御言葉、教え、戒め等を祈り求める為に来ます。しかし、教会が真に祈りの家になる為にはどんな信仰が必要か知る必要があります。主は「心の中で疑わずに、自分の言った通りになると神を信じなさい」、「祈り求めるものは何でも、既に得たと信じなさい」と教えます。信じ切れれば良いのです。しかし、主を信じる者にとって、これ程難しいことは無いというのが現実なのです。信仰者には主イエスへの絶対的服従と信頼が求められるからです。だから主は宮清めを行ったのです。「変われ、信じる者になれ」とその主は私達に教えています。なぜなら、疑わずに信じる以外に教会が教会である道は無く、既に得たと信じるから、教会で在り続けられるからです。

 主は何の為にこの教会を建てたのでしょう。実を結ばせ、実りを得る為です。一人でも多くの人を救い、自分の民とする為に教会をここに建てました。これが真実です。これは霊的事実です。私達は先ず、この事を信じましょう。主は、信じなさい。恵みを祈り求めなさい、教会は祈りの家ですと言います。疑わずに、与えられると信じて、主に祈り求めましょう。主は必ず実を結ばせます。私達を実を結ぶ者とする為に、主は十字架で死に復活し、私達と共に働き、共に歩んでいるからです。皆で、この教会を祈りの家にしましょう。