メッセージ(大谷孝志師)
自分の為の神でなく
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年9月6日
出エジプト20:4-6 「自分の為の神でなく」 牧師 大谷 孝志

 自分にとって神とはどんな存在だか考えてみよう。起きている間、何分間神の事を考えているだろう。或いは、神が共にいると自覚しているだろう。聖書の時代の人々と比べて、今の私達は神に頼らなくても生きていけると思っているのではないか。聖書を読んでいると、少なくとも、彼らは今の私達より神を身近に感じていた。何をするにも祈り、礼拝し、恐ろしい事、不安な事があれば神に願い、不満があれば神に呟く。良い悪いは別にしても、生活の中で信仰が生きていた。科学が進歩し、様々な事が解明されてきたからか。しかし、文明は発達しても文化は発達しないと言う。物理学にしても医学にしても、驚異的とも言える発達を遂げている。生活は確かに便利になった。しかし人間は相手の心を理解できずにいる。理解したと思っても、それは自分が理解したものであって、相手の心ではない。また、先の事も分からない。今は安心していても明日はどうなるか分からないのが現実。昔も今も人生はわからないことだらけ。それなのに私達は昔の人に比べて、神を身近に感じていない。神はいないと思っているのかというと、苦しければ、悲しければ祈ったりする。困った時の神頼みを地で行くのが実情では。

 牧師でも神を忘れていたとはっとする時がある。牧師でありながらその程度の信仰かと情けなくなるが、それが現実だから仕方がない。私だけではないと思う。神を感じていなくても生きていけるとすれば、キリスト者でいる必要はあるのか。今日の個所に「自分のために偶像を造ってはならない」とある。私達が神を忘れることがあるのは、自分の為の神を心の中に造り、それを信じているからと気付こう。

 私達は昔の人達に比べ、自然現象にしても、社会現象にしても、原因を解明し、未来も予測できる。しかしそれで何もかも分かったような気になり、傲慢になっていないか。人はいつ死ぬか分からない。体調に変化を感じ、医者に行き、病名を知り、治療を受けられる。しかし人は急に死ぬ。余命は数週間、数年と告知される事も。人は自分の人生を自分の意思で決められない。私の人生は私のものでなく、神のものと聖書は教えている。だから、神は私の為にいるのではなく、私が存在しようと存在しまいと神は常に存在する。私達はその神を信じている。

 しかし人間は、自分達を超越し、全く異質な存在である神に不安を感じ、神を人間の生活の領域に引きずり下ろし、自分が理解できる、思い描ける存在にしてしまい易い。目に見える存在なら安心できるから。しかしそれは真の神とは何の関係はない。信じている自分に安心しているだけ。確かに、人には神についてのイメージは必要。それが無いと掴み所のない漠然とした信仰になってしまうから。それだから、生活の中で神を忘れ易いのかも知れない。だから主イエスは神についてのしっかりとしたイメージを私達が持つ為に「わたしを見た者は、父を見たのだ」と教えた。主イエスは父なる神を完全に現している方。私達は主について考え、思う時、神について考え、思っている。主イエスと父なる神は一つだから。だから、私達は聖書を読み、祈り、礼拝する中で、イエスについて具体的に知らされる時、神について知らされているのだ。それだけではない。主イエスは今も、生きて働いている。私達が見聞きするもの、事柄を通して語り掛けている。だから、自分の為の神を造って安心しようとする必要は無い。主イエスが十字架に掛かって死に、復活し、主イエスが私の神となって、共にいる。目に見えなくても、私達の方で幾ら忘れようとも、確かに生きて、私達一人一人と共にいるのだから。