メッセージ(大谷孝志師)

権威ある主に従う
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年9月13日
聖書 マルコ11:27-33「権威ある主に従う」  大谷孝志牧師

 今日の箇所は、直接的には祭司長達、律法学者達、長老達が、主イエスが行った「宮清め」に危機感を抱き、イエスを殺そうと相談した結果起こした行動と考えられます。この3グループは最高法院というユダヤの最高議決機関で、その決定はユダヤ人の総意に等しくローマのシリア総督も無視できない権威をっていました。主イエスと弟子達がエルサレムに来て、宮の中を歩いていると、彼らがやって来て、主イエスに「何の権威によって、これらのことしているのか。だれがあなたに、これらのことをする権威を授けた」のかと尋ねました。彼らにとって、自分達が神の宮を強盗の巣にしてしまったとのイエスの言葉は、自分達の存在を脅かすものなので、彼が何の権威によってそれを言えたのかをはっきりさせておかなければ、と考えたからです。

 しかしマルコは、この問答によって、私達読者に大切な事を教えているのです。「宮清め」で彼は、主を礼拝する者達に、自分達が属する教会を自分達の利益を受ける為の場所にしていないか、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるに相応しい場所にしているかと問い掛け、自己反省を促しました。同じように、ここでも彼は、私達が主イエスが持つ権威をどう受け止めているかと問い掛けています。私達も、キリスト者として主の御前に正しい歩みをしているかと問い掛けられ、信仰の自己吟味を求められていると気付きましょう。

 主は尋ねに来た彼らに、逆に尋ねます。私の問いに答えられたら、私も、何の権威によってこれらの事をしているのか答えましょう、と言います。主は彼らに「ヨハネのバプテスマは天から来たのか、それとも人から出たのか、私に答えなさい」と尋ねました。それを聞いて、彼らは答えに窮してしまいます。「天からだ」と言えば「それならなぜ、ヨハネを信じなかったのか」と主に言われるだろうし、「人から出た」と言えば、ヨハネを預言者と思っていた群衆の怒りを買うだろう」と考えたからです。ヨハネは荒れ野で、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。人々は続々と彼の元にやって来て、自分の罪を告白し、バプテスマを受けました。彼が神の御心を伝えていると信じたからです。マタイ3章によると、大勢のパリサイ人やサドカイ人もバプテスマを受ける為に彼の所に来ました。彼らも、彼の言動や群衆の反応を見て、御心を伝えているかも知れないとは思ったからです。しかし、彼らの行動は「かもしれない」と思ったに過ぎず、彼がヘロデに捕らえられた後、何の行動も起こしていません。彼が宣べ伝えた事が神の御心だとは信じ切れなかったのです。しかし彼らは、群衆は信じていると知っていました。群衆のヨハネについてのその確信を否定したら、群衆の恐れを買うと恐れたのです。そこで彼らはイエスの問いに対して「分かりません」と答えました。彼らは神を信じ、神に仕え、聖書に精通している人々です。しかし、神の御心が何であるかをイエスに尋ねられ「分かりません」としか答えられませんでした。私達も主を信じ、礼拝しています。その私達に、真に自分達の主、救い主キリストと信じて礼拝しているかと聖書は問い掛けます。

 律法学者達が問題にした主イエスが誰に与えられた権威によって神の福音を宣べ伝えているのかとイエスを質したこの記事によって、マルコは、私達に主をどんな方と信じているかと問い掛けているからです。8章で主は弟子達に「人々は私を誰と言っているか」と尋ねました。彼らが「バプテスマのヨハネ、エリヤ、預言者の一人と言っている」と答えると「あなたがたは私を誰と言うか」と重ねて尋ねました。自分自身が主がどんな方であると人々に言い表すことが、主の弟子である為の第一歩なのです。するとペテロは「あなたはキリストです」と自分の言葉で、自分の責任で答えました。「キリスト」は、神が人々に遣わした救い主を意味します。彼はイエスこそキリストですと告白したのです。それは同時に、神は全ての人を受け入れ、愛し、祝福しているとの真理、真実を、彼が信じ、告白していることを意味します。

 ペテロはしっかりと自分の信仰を正しく言い表し、素晴らしい告白をしたのです。しかし彼は、主に人の子はユダヤの指導者達に捨てられ、殺され、三日目によみがえると教えられると、それは違うと真っ向から否定してしまいます。主はその彼をサタンと呼び、叱責し、神の事を思わず、人の事を思っていると糾弾します。そして、私を神が遣わしたキリスト・救い主と信じるなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさいと教え、更に、自分の命を自分で救おうと思ってはいけない、それを失うから。福音の為に命を惜しんではいけない、命を失ってもその人は救われるから、と教えます。

 私達はイエスは、キリスト、神の御子、救い主と信じています。しかも、私達の主であり、神であると信じています。聖書は、この主の権威をあなたはどう捉えるかと問い掛けます。イエスをそのような方と信じるから、私達は主の日に会堂に集まり、主を礼拝することを掛け替えの無い事と分かっているから、今ここにいます。私達に聖書は「自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」と、実に厳しい要求を突きつけています。私達も彼のように異議を唱えたくなることはないでしょうか。「これは私に向けた要求ですか、今の時代でもこの要求は有効ですか。私には私の人生があり、社会人、家庭人として果たすべき義務もあります。主は何の権威で、私が自分の人生を否定し、自分の十字架を負って生きるよう求めるのですか」と。

 しかし、主は私がペテロのように異議を唱えたとしても、サタンと呼んで叱責せず、ただ黙って見詰めているだけなのです。その沈黙、その主の眼差しをどう捉えるかと聖書は一人ひとりに問い掛けています。イエスは主。万物の創造者、支配者です。私が主をどう思うとも、主は権威ある方として私の前に立っています。主は御心のままに全ての事を行い、私が主に相応しい者として生きられるよう助け導いていています。それが私達が信じる主イエス・キリスト、十字架と復活の主です。勿論、主がする事は、私達の思いと遠く離れたり、真逆の場合すらあります。しかし私達は主が支配する社会に、主が全ての全てである世界に生きている、いや、生かされているのです。その主の権威を認め、自分を捨て、御前に跪けと聖書は私達に命じます。そこにこそ真の幸いな人生があるからです。主の後に従い、歩み続けましょう。