メッセージ(大谷孝志師)

御霊に導かれて歩む
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年9月20日
聖書 ガラテヤ5:13-26「御霊に導かれて歩む」  大谷孝志牧師

 昔牧師をしていた教会の近くの道端に小さな地蔵尊があり、高齢の方が何人もその前で手を合わせていました。御利益があるからでも、拝まないとたたりがあるからでもないようです。人が誰でも持つ何かに縋りたいという思いに駆られて手を合わせていたようです。私達は今日、この礼拝堂に集まり、主を礼拝しています。主イエスが私達を愛し、恵みと平安を与える方、日々安心して過ごせるよう守る方と信じるからです。今から74年前に、向島で最初のクリスマス礼拝が捧げられ、この教会の歩みが始まりました。この地の人々に主イエス・キリストを信じ、救われて生きる素晴らしさを知って欲しいと願う人々がいたからです。私と同じ年月を経てきたと先日気付きました。その後も、幾多の牧師、教会員がここの教会を建てた主の為に力強く働き、この歴史に関わって来ています。私達もその歴史を受け継ぐ者として、主によってここに集められ、礼拝を守っているのです。主はこの地の人々を愛し、救いに導こうとこの教会を建てました。主はその目的の為に、ここにいる私達一人一人をここに招き、ご自分と出合わせ、主を信じる者とし、更に成長させようとして語り掛けています。今日もその御言葉を共に聞きましょう。

 先月も学びましたが、ガラテヤの諸教会は彼が伝えた福音から離れ、かなり酷い状態でした。彼らは噛みつき合ったり、食い合ったり、うぬぼれて、互いに挑み合ったりしていると強烈な言葉を彼が並べ立てているからです。しかし、誘惑に陥り、キリストから離れ、恵みから落ちてしまった彼らを非難せず、彼は励まし続けています。彼はこの諸教会を愛して止まないばかりか、この憂うべき状態にいる彼らに教会本来の姿を取り戻して欲しいと真剣に願うからです。その為に、主が自分に示された必要な事を書き記します。自分が書くこの手紙によって、彼らが福音信仰に固く立ち、一つになってキリストの体なる教会の一員同士として互いに愛し合い、神に喜ばれる教会となれると信じるからです。それが何にも換えられない彼の望みだからです。

 パウロはそのような状況の中で、心を尽くして彼らに深く関わり続けます。自分の信仰理解、信仰者としての歩みが正しいからと、自信を持つからではありません。彼が御霊の働きに絶対的信頼を置いているからです。彼らは確かに自由を履き違え、彼らを神の愛で守ろうとする御霊の助けと導きを拒んで、肉の働きに身を任せ、自分がしていて楽しい事をし、神を喜ばせる事を第一としなくて良い生活で満足していました。しかし、彼らを教会へと招いたのは主なのです。主を知らず、様々な不安や恐れに翻弄されていた彼らを主は愛し、導いたのです。そして彼自身の目にはどう見えようと、主は真実な方だから、今も御霊が彼らの内に働いていると彼は見抜いているからです。

 私達は他人を注意、助言する時、彼のように主を深く信頼し、主に在って相手を信頼する者になれと教えられます。彼はピリピ1:6で「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させて下さると、私は確信して」いると言います。この確信が大切です。

 主イエスを信じていると、そのように自分の目に見えることではなく、主がこの人達をどう見ていて、どうしようと思っているかを先ず考えられます。自分が、目に見え、自分の知恵と知識で判断できる常識の世界にではなく、神の愛が支配する世界に生きていると信じられるからです。教会に主に招かれ、教会という神の国に生きるとは、それ程重く素晴らしいことなのです。肉の働きに任せて相手を見ずに、この信仰によって歩む私達でいましょう。

 パウロは19-21節で、肉のわざについて列記していますが、それらは主がマルコ7;15で「人の中から出るものが人を汚す」ものとして挙げているのによく似ています。遵守しなければ神に喜ばれないと教えられた律法は、主が言う「人間の教え」に過ぎず、それを守っても逆に神に喜ばれないと彼らに教えます。彼らは最初、彼が伝えた福音を信じ、主イエスを信じる信仰によって救われ、喜んで生きていました。彼が「よく走っていた」とその当時の彼らの信仰生活を褒めているように、割礼を受けずとも愛によって働く信仰を大事にできていました。しかしエルサレム教会から来た人々に、異邦人は割礼を受けてユダヤ人と同じにならなければ駄目なので、割礼を受け、細々とした掟を守るよう教えられ、その人々に引きずられていました。だから彼は、そんな事はあなたがたの救い主、主イエスの教えでは無い、主が教えた大切な掟は、「あなたの隣人を自分自身のように愛いなさい」なのです。この教えさえ守れば律法全体を守ってることになると教えたのです。更に彼は教えました。「人が細々とした規則を全て守らなければ救われないとしたら、誰も救われません。神は、人が自由に生き生きと愛し合い、仕え合って共に生きることを望んでいます。人が、人間が作りだした律法を守ろうとしたら、その律法に縛り付けられ、内に潜んでいる肉の欲望の奴隷になってしまいます。そうなったら神の国を相続できず、滅びてしまいます。神は御子を世に与え、その死によって世を贖い、御子と信じる者に永遠の命を与え、信じた私達を神の宮とし、御霊が内に宿る者としているのです」と。それなのに、彼らが御霊によって歩むその素晴らしさより、肉の欲望を満たす方が楽で楽しいと思ってしまっているのが、彼は残念なのです。主イエスを信じ、御霊によって歩めば、22節の「愛、喜び、平和、…」という御霊の実を結べます。自分達をそのような者とする為に、主は十字架に掛かって死んだと知らされました。その主を信じた彼らは、自分の肉を十字架に付け、古い自分が死んで、新しい人、御霊によって生きる者となったのです。それは、彼らがキリストから離れ、恵みから落ちてしまった今も有効なのです。主は恵み深い方なのです。だから、彼らが最初に信じたパウロが伝えた福音に、立ち帰り、御霊によって歩み、御霊の実を結ぶなら、真に神に喜ばれる者、神の愛の内に生き、互いに愛し仕え合う者に変われるのです。彼はそう固く信じるから、見える現実に負けず、御霊の助けと導きに期待して彼らに働き掛けます。私達もパウロのガラテヤの諸教会の人々への情熱と深い愛とを思い、心を新たにし、私達をも助け導く御霊によって歩みましょう。世の人々、教会の人々を愛しえ合える相手と認め、主の愛に励まされ、御霊によって歩みましょう