メッセージ(大谷孝志師)
喜んで主に従う
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年9月20日
ヨハネ12:20-26「喜んで主に従う」 牧師 大谷 孝志

 「祭りで礼拝の為に上ってきた人々」は、身を清める為、過越の祭りの前に地方から上って来ていたユダヤ人。彼らの多くの人がイエスがいると聞いてやって来た。イエスに会う為だけでなく、病気で死んだが、四日目にイエスがよみがえらせたラザロを見る為。人は生きている限り死を恐れる。死は生きている者が過ごしたそれ迄の人生に終止符を打たせるから。どんなに優れた知者賢者であっても死を免れない。どんなに身を清め、神を礼拝していても人は必ず死ぬ。そして、生きている者はこの世において死んだ者との関係が断たれる。だから、富も地位も名誉も、家族友人との関わりも全て切り捨てられると考えるしかない。永遠の命を与えられ、死後も神と共に生きると信じる私達も、その世界の報告を聞けない。聖書の黙示録により、死後霊的に復活し、新しい神の国に生きる希望、情景を与えられてはいるが、それは私達が自分の心の中に描いているものに過ぎない。

 しかし人々は、ラザロが完全に死んで、四日目によみがえったことに大きな衝撃を受け、死を含めた人生観をひっくり返された。死、そして生きることについて、全く違うものが有ると気付かされた。そしてその事を明らかにしたのが、主イエスだと知り、イエスへの見方が大きく変わった。そして、多くのユダヤ人がイエスを信じて、こぞってイエスの後に付いていった。しかしその人々はイエスについて上辺だけのことしか見ていないのに、彼ら自身が気付いていない。

 さて、何人かのギリシア人が十二弟子の一人のピリポに、あのイエスに会わせて欲しいと頼む。彼らは礼拝の為にエルサレムに来た人々なので異教徒ではない。ユダヤ人と同じ神を信じていた。しかしイエスがこれ迄の神、生き方についての考えとは違うものをイエスが示すと期待した。だからわざわざ頼みに来た。それ程、ラザロのよみがえりは衝撃的。頼まれたピリポは同じ弟子仲間のアンデレに話し、二人はその事を主イエスに話した。「すると、イエスは彼らに答えられた」。ここにギリシア人達がいたかどうかは不明。29節には主の話を聞いていたのは群衆とある。主はユダヤ人、ギリシア人を含めこの世に生きる全ての人に向けて、人はどう生きるべきかを教えた。聖書はその事を私達にも心を新たにして考えよと語り掛ける。神は、イエスがラザロを死人の中からよみがえらせたことにより、ご自分が人の生と死を支配することを明らかにした。主は全ての人が神のものとなり、神と共に永遠に生きる者となる為に自分が死ななければならないと教えた。

 主はご自分の十字架の死によって、全ての人に永遠のいのちが与えられる道が開かれると32,33で暗示した。しかし。27節でご自身が叫んだように、自分が永遠に生きると知っていても、十字架に掛かって死ぬことは計り知れぬ重さを持つ。しかし、死によって豊かな実を結ぶことは遥かに重いと知る。だから、主は自分を低くして、死にまで、それも十字架の死にまで」父なる神に従った。世に生きる者にとって命への執着と死が持つ力は大きい。人がその重さに縛られ自由になれないのは、世を支配する悪の力の下にいるからと主は言う。主の死によって神が悪を裁き、世の支配力を奪い去る時が来て、人々はイエスこそ主であると知る。主イエスを信じ、主に従うなら、人は命への執着と死への恐怖から解放される。主は16:26:33で言う。「此等のことを汝等に語りたるは、汝等我に在りて平安を得んが為なり。なんじら世にありては患難あり。然れど雄々しかれ。我すでに世に勝てり。」主は今も生きて働く。その主に従い、喜んで世に生きる者になろう。