メッセージ(大谷孝志師)

人生最高の秘訣
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年9月27日
聖書 伝道者12:1-14「人生最高の秘訣」  大谷孝志牧師

 伝道者の書を毎月学んできましたが、今月で最後になります。今日の個所を通して、主が私達に教えている「人生最高の秘訣」を共に学びましょう。
 伝道者はここで、様々な事象、現象、動植物、生活用品を挙げています。そして、それら全てには終わりがあり、また役に立たなくなる時が来ると言います。彼は、それらの人が経験、使用するものの全に終わりがあると同様に、人生には終焉が有ると、例えを用いて教えている、との説が有力です。

 彼は先ず「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と言います。彼はこの言葉で、主を信じ、信仰を持って生きることは素晴らしいことだから、大人になってから主を信じ、もっと早く信じれば良かったと後悔する人が多いだから。、若い内に主を信じた方が良いとの勧めているのではありません。若者は多くの可能性を持っています。楽しく喜んで日々を過ごす力を持っているので、希望に満ち溢れています。しかしと彼は言います。人は必ず死ぬように、若さは必ず過ぎ去ります。人は一生の間若々しく生きられません。人は年を取ると若さと気力を失い、物事に対処しきれず、将来に期待できなくなります。期待はできます。しかし実現は困難です。色々工夫し、努力しても、実際には、誤魔化しにしか感じられない程、重苦しい現実に日々悩まされるようになるのが現実です。ですから彼は、若さを満喫している時こそ、それに埋没せず、目に見えない神、全てを知り、全ての事の意味を教える神、自分を造り、自分が生きる世界を創造した神を知り、受け入れなさい、と教えているのです。彼は、太陽と光、月と星、つまり宇宙が永遠でないと知っていました。それら同様、若さも永遠ではないからと教えています。

 3-8節は主が教えた終末の徴の内容を思い起こさせますが、彼はここで老齢に達した人の身体を寓喩的に描いています。「家を守る男」は手、「力ある男」は足です。同じように「粉ひく女」は歯で、「目は暗く」は視力の衰えを、「扉は閉ざされ」「臼ひく音もかすか」は、耳が遠くなったり、食欲減退を表しています。更に、「鳥の声に起き上がり」歳を取ると早起きになることを、「歌を歌う娘達はみな、うなだれる」は、耳が遠くなるを表し、「高い所を恐れ、道で脅える」は坂道に息切れをし、平地でも疲れて立ち往生し易いことを表しています。「アーモンドの花」は白いので、白髪を、「バッタは足取り重く」は、体力等の減退を示していると考えられています。人はこのような老後を過ごしながら、「永遠の家」である死に向かうと彼は教えます。高価な「銀の紐」「金の器」は人が神に造られた特別な存在と示しますが、「打ち砕かれ、砕かれる」ことで、死は全ての人に公平に臨み、肉体は土に帰り、霊は神に帰るだけなので、人の一生は「空の空」と伝道者は言います。

 さて、9節に「伝道者は」とあるので、9節以降は他の人の感想と考えられています。しかしここを通して、私は聖書に対する姿勢、聖書の言葉の受け取り方を教えられます。この部分を書いた人は、この書を書いた伝道者は知恵有る者であり、知識を神に教えた人であると認めています。

 しかし、聖書は人々が自分達人間の知恵で書き記したものではありません。Ⅱテモテ3:16にあるように「聖書は全て神の霊感によるもの」です。御霊が人に知恵と知識を与えて、導き書き記させたものです。ですから聖書を読むと力を与えられ、自分がすべき事を示されます。御言葉には力があります。しかし、聖書はこの世で生活している人が書いた物です。ですから御霊の導きを受けていても、どうしても、その人の生き様、性格、感情、歴史が入ってしまいます。筆者は神に選ばれた者として、正しい御心を伝えられるよう、心を尽くします。読む人が神に喜ばれる生き方を悟れるよう思索し、探求し、必要な事をまとめます。その上で真理・真実を表す適切な言葉を探し求め、示され、与えられた真理の言葉を謙虚に、真っ直ぐに書き記したのです。ですから、私達は聖書を読んで、自分への御言葉を聞き、御心を知り、本当の自分を知ることが出来ます。聖書は御心を知らせる神からの大切な手紙です。

 彼は、その聖書の言葉を「突き棒のようなもの」、「よく打ち付けられた釘のようなもの」と言います。私達には馴染みの無い物ですが、パレスチナの遊牧民に取っては生活必需品です。「突き棒」は雄牛のような家畜を飼う者が用いる物、「釘」は家畜を駆り立てる杖の先に埋め込まれた物です。家畜を飼う人が家畜を強制的に安全な場所、目的の場所に追い立てる為の物です。勿論彼は、御言葉は真理を告げ私達の心を和ませ、安らかにするものと知っています。しかしそれだけではないことも知っているのです。私達も経験しますが、神が良しとする方向へ人を導く時、御言葉が自分の意に染まなかったり、反したりする時もあります。しかし神は真実な方です。私達に良い道、正しい道を示しているのです。ですから、聖書を読む時、聖書のメッセージを聴く時、全てを知る主が、私達に御心を行わせる為にそれを与えていると受け止めましょう。素直な謙虚な心で聖書を読み、御言葉を聞きましょう。自分を捨て、自分の十字架を負って、主イエスに従う姿勢が大切だからです。

 さて、12節は牧師への忠告とも取れます。牧師は説教の為の原稿を書きますが、自分の力で学び真理を知ろうとしてもきりが無く、目的のものを得られず疲れるだけというのが現実です。牧師に限らず、人は何かを学ぼうとし。真理を探求しようとします。実は、それは空しい努力に過ぎないと彼は言います。何故なら、神は御霊によって人に働き掛け、聞かせているからです。全ての事は神の計画の中で行われ、実現している事なので、私達は聖書を読み、祈り、神と霊的交わりの時を持つことによって御心を知れば良いのです。この世に起きる事の全ては、神が行っている事です。そしてその神は「善であれ悪であれ、あらゆる隠れた事について、全ての業を裁かれる」方です。彼はそれを知るので、「神を恐れ、神の命令を守れ」と、御前にひれ伏し、従順に生きよと言います。そして「これが人間にとって全てである」と教えます。そうすれば、私達は平安に、幸いに日を過ごせます。私達は全てを知り、全てを与える神が支配する世界に生きているからです。「神を恐れ、神の命令を守れ」は「自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従う」ことです。これを「人生最高の秘訣」として、日々、神と共に世に生きて行きましょう。