メッセージ(大谷孝志師)
平安と喜びで満たされる
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年9月27日
ローマ15:7-13「平安と喜びで満たされる」 牧師 大谷 孝志

 キリスト者になると堅苦しくなるので成りたくないと言う人がいた。求道者でいれば礼拝出席や献金は自由だけれど、キリスト者になるとそうはいかないし、奉仕を色々としなくてはないからがその理由。私の両親にもその傾向があった。母は助産婦、父は謡曲の会二つの主催者をして、礼拝は行かれる時に行けば良いと考えていたから。しかし、父は友人のキリスト者に牧師をしている息子の父親がキリスト者でないとおかしいと諭され、それが当然だと感じて、母は主イエスに全てを委ねるしか無いと感じ、それしかないと感じて、キリスト者に成る決心をした。人がキリスト者になるには、礼拝に何十回出席すればとか、聖書理解がこれだけ深まったらとかいう基準はない。勿論ある程度の準備期間は必要だが、それにも個人差が。だから、自分への主イエスの愛、神の愛を知り、キリスト者になりたいと思わなければ、キリスト者になる気が起きないのは当然だと言える。

 しかし、キリスト者にならなくても礼拝に出続け、教会から離れない人がいる。昔、姉はキリスト者で奏楽を始め、様々な奉仕をしていて、自分も礼拝には毎週のように出席していたが、キリスト者にはならないと言い張る中学生がいた。でも、教会から離れられなかった。私も教会に熱心に行き始めた頃、キリスト者に成らないかと聞かれたことが。でもなる気になれないと言い断った。でも教会に来続けた。それはキリスト者の生き方に、はっきりとは分からないが惹かれるものがあったから。祈り、奉仕する姿を見て、自分もああ成りたいとの思いを持ったから。逆に言えば、その当時の自分の生き方に満たされないものを感じていたのだと思う。何でキリスト者は、いつも、何かにつけ喜び、感謝していられるのかと不思議だった。そのように、求道者にとって魅力有る生き方をしていることがキリスト者にとって大切。求道中の人はキリスト者の生き方をよく見ている。

 キリスト者の方が、求道者が神の愛、主イエスの愛に少しでも触れられ、喜びと希望に満たされ、神を崇められるようにと心を配ることが必要と知ろう。その為に、キリスト者が神の栄光を現すものとなることが大切とパウロは教えている。人間である自分に、神の栄光を現せる筈はないと考えるかも知れない。しかし、主イエスを心から受け入れ、信じている人に求道者が神の栄光を見るのは事実。私もクリスマス燭火礼拝の中で、老婦人の顔の輝きに神の栄光を見、本格的に求道しようと決心した。その人は自分が人にそんな大きな影響を与えるとは意識していなかったと思う。しかしその人を通して主が働いた。それは彼女が自分が主の愛に捕らえられ、主に受け入れられていると心から感じていたからと私は思う。その溢れる喜びが神の栄光の輝きとなり、私の心に響いた。主はサマリアの女性に「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちの水が湧き出ます」と言った。

 キリスト者がキリスト者でいられるのは、主がいのちの水を与えているから。このいのちの水を飲むと、主イエスのように人を愛し、受け入れられる。聖霊がその人の内に働くから。聖霊の助けと導きを戴き、キリスト者同士が先ず安心して、互いに受け入れ合い、愛し合おう。それが求道者に善い影響を与える。教会の中に、主を信じる信仰に、世では満たされない喜びと希望の泉があると求道者に感じ取って貰える生き方をしよう。そうすれば希望の神が、信仰による全ての喜びと平安でこの教会を満たし、聖霊の力によって希望に溢れさせて下さるから。