メッセージ(大谷孝志師)

助け主が与えられる
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年10月4日
聖書 ヨハネ14:15-21「助け主が与えられる」  大谷孝志牧師

 ヨハネ14:16,17で、主は「父なる神はもう一人の助け主を与え、いつまでもあなたがたと共にいるようにする。その方は真理の御霊」と言います。14:26では、「助け主、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊は」と言い換えています。父なる神はこの世に主を信じ、福音を伝える私達の為に真理の御霊、聖霊を遣わし、私達に与えると主は約束しているのです。
 「聖霊」とありますが、ギリシア語の聖書は霊、風、息は同じプニューマで表します。霊は、風や息のように目に見えないけれど、現にそこに力として存在するからです。「聖霊に満たされる」と言うと、異常な精神状態、興奮状態と感じる人もいるようですが、そうではありません。神がその人を通して働いている状態を表しているのです。「聖」が着く言葉について言えば、聖書はキリスト者を「聖なる者」「聖徒」と呼んでいます。「聖人君子」という言葉があります。しかしキリスト者は誰も、自分が聖人君子、つまり、高潔偉大な人間だとも教養豊かな人物だとも思っていません。確かにキリスト者は自分が聖なる者とされていることは信じています。でもそれは、ただ神が恵みにより聖なる者としているからなのです。神は、御子の十字架の死によって全ての人の罪を取り除き、聖なる者となる道を開きました。そして、それを知り、主イエスを信じた者をご自分に相応しい者、聖なる者、神の領域、神が支配する世界の民、神の子として受け入れています。ですから、キリスト者は、品行方正、高潔な人物だからではないが、聖なる者と呼ばれます。

 さて、聖霊とはどんな存在でしょうか。旧約には、聖霊は詩編51:11に、聖なる御霊はイザヤ63:10にあるだけです。しかし、新約には92回あります。それは聖霊の存在が、主イエスの受肉と十字架の死と復活、昇天の出来事により始まった新しい時に生きる人々に初めて明らかにされたからなのです。聖霊は目に見えません。しかし確かにいます。何故なら、人が教会に行こうと思う時、主イエスを信じようと思う時、信じた時、キリスト者として生きる時、全ての事は聖霊の助け導きにより行われているからです。更に言えば、人を愛し、福音を伝え、教会に誘うことも全て聖霊の助け導きです。私達が聖霊の助け導きを感じる時、その時、自分や他の人に神が働いているのです。

 主は弟子達に父は「その助け主がいつまでも、あなたがたと共にいるようにしてくださる」と言いました。何故でしょう。私達が世に生きている間は誰にでも苦難があり、その意味が分からないと苦難に押し潰されそうになってしまいます。意味や理由、目的があることを知ればそれに耐えられます。私達と共にいて、内に住む聖霊が御心を、ご計画を知らせてくれます。ですから私達は、苦難に負けず、希望をもってこの世で平安に生きられるのです。

 さて、新しく教会に来た人が直面する問題は、「主イエスを信じるなら救われる」と信徒に言われても、信徒は目に見えても、肝心の主イエスが目に見えないことです。それに、主を信じて良かったと信徒は言うけれども、信徒も人なので悩んだり、苦しんだりする姿も見聞きする時があるからです。
 それだけではなく、時には、どうしても 許せないと思う事をする信徒を見る時もあります。教会は聖なるキリストの体でも人の集まりだからです。

 主イエスが十字架に掛かって死ぬ前、世に生きている間と復活後の40日間は弟子達には主の姿が見えました。もし今も主の姿を見られたら、教会に来る人も信じる人も多くなると思いませんか。しかし、昇天後は見えなくなったのは厳然たる事実です。世の終わりに主が再臨するまでは見えないのです。それなのに、信徒は何故主イエスが今も自分達と一緒にいると信じ続けていられるのでしょうか。実は、やはり目に見えない聖霊が助け導いているからなのです。実は、信徒は信仰生活の中で、神が自分や自分達に働いているとしか思えない経験をしているのです。信じていない人は、それは信徒の思い込みと思うかも知れませんが、不思議なことに、聖霊が信徒に働き掛け、主イエスが、父なる神が示したとしか思えない事が心に浮かぶのです。力、喜び、希望を与えられるのです。これは実際に経験しないと分からない事です。だから、信徒は父なる神、主イエス・キリストの存在を感じ取り、希望と勇気を与えられます。主が自分と共にいると感じ、満たされた思いになり、平安を与えられ、悩んだり、苦しんだりはしますが、それに負けずに、逃げ出したりせずに、主を信じ続けていられるのです。私も牧師をしていられます。

 聖霊と父なる神と御子イエスはどんな関係なのでしょう。結論から言えば、一人の神です。旧約聖書には子なる神も聖霊なる神も登場しません。しかし聖書は神が自分を「我々」と呼んでいると記し、三位一体の神であると暗示しています。14:9でも「わたしを見た人は、父を見た」と主は教えています。主イエスを信じる人は、同時に父なる神、聖霊なる神も信じているのです。それなのに、弟子達は何故目の前にいる主に「私達に父を見せて」と言ったのでしょう。「見ると聞くとは大違い」と言いますが、見ると信じるはそれ以上に違うからです。主が復活後最初に弟子達に現れましたが、その時いなかったトマスは「主の十字架の傷を触って確認しなければ私は信じない」と言いました。しかし、主が姿を現すと、主は復活して霊の体で今も存在していると信じていました。主はその彼に「見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いです」と言いました。主は何故人は見ないで信じられると言ったのでしょう。人にその力が有るからではありません。見て信じるのと見ないで信じるのとの間には、非常に大きな壁があります。しかしその壁を越える時、人は何事にも負けず、挫けない、絶望しない生き方を手に入れられるのです。目に見えない神を聖霊が私達に霊的に示すその働きによって神の臨在の確かさを信徒が悟れるからです。それは主の十字架の死により、主イエスを信じる人が神の恵みの器に変えられたからです。人は皆弱く愚かで神に相応しいと言えません。しかし誰でも、十字架の恵みにより聖別され、見えない主に目を注ぎ、御心を悟る者になれます。使徒16:31に有るように、主イエスを信じるなら救われるのです。信徒は信じて救われました。聖霊は区別無く、今も全ての人に働き掛けています。聖霊が私の内にいて働いていると感じ取り、その喜びに満たされて生きる者になろう。そこに真の平安があります。