メッセージ(大谷孝志師)

教会は神のもの
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年10月11日
聖書 マルコ12:1-12「教会は神のもの」  大谷孝志牧師

 主イエスが十字架に掛かる直前の受難週にした譬え話を通して学びます。主はこの譬え話で、神殿とイスラエルの人々を私物化しているのに気付かないユダヤ教指導者達に、神殿とイスラエルの人々は神のものであると教えています。「彼らに」とあるのは、そのユダヤ教指導者達です。彼らは前月の箇所で、主が宮清めをしたり、律法をないがしろにしているとしか思えない教えを人々に説いているけれど、何の権威によってしているかと尋ねました。主は、彼らが自分達の権利を守ろうとしているだけと見抜き、彼らを正す為にこの話をしたのです。ですから主は、この譬え話の後の10節で「あなたがたは」と言います。この話を聞き、自分達を指したものだと分かった彼らは、主を捕らえようとします。しかし、群衆がイエスの教えに驚嘆し、喜んで聞いているのを知っているので、群衆を恐れ、イエスを残して立ち去りました。

 今日の話は、出てくる物と人がはっきりしていて分かり易い譬え話です。ぶどう園を造り、それを農夫達に貸して旅に出た人は、父なる神です。そのぶどう園は神の民とされたイスラエルの人々、ユダヤ人です。主人が巡らした垣根は、この垣根の中にいれば神の民であると、神が与え、守るようにと命じた律法です。踏み場は実った葡萄を発酵させ、酒にする場ですが、ここでは神に献げ物する為の祭壇の喩えです。見張り櫓は敵の来襲を知らせ、見守る役目の場所ですから、正に神殿です。ぶどう園を貸した農夫達は、葡萄を育て、収穫できるよう働く人々です。だから、神の民を神に喜ばれる人々にする為に、民を育成、指導する役目を神に与えられたユダヤ教指導者達のことです。農夫達の所に遣わされた僕達は、神が指導者達に遣わした預言者です。そして主人が最後に遣わした愛する息子は、主イエス・キリストです。ぶどう園の外はエルサレムの外にあった主が十字架に付けて殺されたゴルゴダの丘を指しています。ぶどう園を与えられた他の人達は、主の福音を伝えられ、主イエスを信じて救われた異教徒、異邦人を指しています。最後に主が引用した聖句は、旧約聖書の詩篇118篇22,23節に記されている御言葉です。

 主はこの譬えで先ず、神がイスラエルの民に何を求めているかを教えています。イスラエルの人々は昔からぶどう園に例えられていました。何故、神は人を創造し、イスラエルの人々を神の民、神のものとしたのでしょうか。昔、狼に育てられた少女が発見されたが、彼女は自分が人間だと分からなかったそうです。そのように、私達もこの世界にたった一人でいるとしたら、自分が何者であるか、何の為に生きているのか分からないと思います。自分が自分である為には相手が必要なのです。神は神である為に、ご自分を礼拝し、共にいる相手が必要だから、人を創造しました。イスラエルの人々が神を自分達の神として崇め、礼拝することによって、神は神であるからです。

 主人は、ぶどう園を貸して旅に出ました。これは、神が罪を犯した民から離れていたことを示しています。その民が神を正しく礼拝するよう、管理と育成をユダヤ教指導者達に任せたことを、主は貸したと表現しているのです。

 借りたものですから、ブドウ園は彼らの所有物ではありません。そこから得る実りは主人のものです。でも、その実りから収入を得る権利は彼らに有ります。主人が、収穫の全てではなく一部を受け取るとあるのはその為です。神が僕を遣わしたとあるのは、民の神への信仰、つまり、神が受け入れるに相応しい民として指導されているかを確かめる為に、神が遣わした預言者の喩えです。神は民がご自分に相応しい民となることを求めているからです。

 主はこの譬え話で、ユダヤ教指導者達が神が与えた務めを果たしていないばかりか、自分達の利益だけを求め、神の求めに応えないでいるから、私が来たと教えています。確かにこれは、彼らについての話ですが、教会の一員である私達への警告として聞きましょう。聖書は私達に、自分が何故神の子とされ、平安と希望を与えられているか、何故、教会に与えられた使命を果たす役割が自分に与えられているかを考えよと、問い掛けているからです。

 この「収穫の時」は終末の時ではありません。神が自分の民との関係を正しく維持させる為、御心を示し、その関係を確認する為に預言者を遣わしたその時です。言い方を変えれば、常に聖霊により神は私達に神の民として生きることを求めているのです。農夫達が僕達にしたように、指導者達は民の心が自分達から離れるのを恐れて、預言者の活動を妨害し、彼らの言葉は御心では無いとし、侮辱し、彼らが実りを得られないままで去らせたのです。

 この主人は別の僕、多くの僕を送ったとありますが、これは、特定の預言者を指しているのではありません。但し、3回続けての派遣は、神の民への熱情に溢れた愛を表しています。そして彼らのエスカレートしていく行動は、彼らが自分達の内に持つ利己主義、自分中心主義の醜い本質が表に出て行くことを表しています。彼らの反逆にも関わらず、神が預言者を送り続けます。その理由は、神がそれ程までに、深く深くご自分の民を愛しているからです。

 「もう一人、愛する息子がいた」とある息子こそ、主イエスご自身です。神が御子イエスを世に遣わしたのは、ユダヤ教指導者達に神に真に立ち返る機会を与える為でもありますが、同時に、最後通告にもなっているのです。指導者達は、民衆の敬意を良いことに、神殿と民から得る自分達の利益に執着し続け、本来の役割を果たさずにいたのです。そこに神の代弁者、神が共にいるとしか思えないイエスが出現しました。主を神のひとり子と認めていた訳ではありません。でも、主を捕らえ、十字架に掛けて殺すことで、利益をより確実に得られると考えたのは、結果的に主を神の一人子と認めたことになります。だから神は最後通告の通りに、ユダヤ教徒にではなく、全ての人に神の民となる資格を与えることにしたのです。彼らが私物化した神殿も民も神のものだからです。同じように、私達自身も私達によって構成され、維持されている私達が属する教会も神のものなのです。Ⅰコリント3:22,23の御言葉を借りれば「全ては私達のもの、私達はキリストもの、キリストは神のものです」人の意思、意向で物事を決めないよう注意し、常に御心は何か、神はどんな計画を立てているかを、聖霊の助け導きを頂いて謙虚に御心を尋ね求め、示された御心を誠実に行い、物事に対処する私達になりましょう。