メッセージ(大谷孝志師)
私の人生誰のもの
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年10月11日
ルカ12:13-21「私の人生誰のもの」 牧師 大谷 孝志

 私達は生きている。生きている限り、可能性はどこまでも広がるような気になる。更に人は、有形にしろ無形にしろ色々なものを所有している。自分の物なので自由に使え、制限や限界はないと思い易い。しかし聖書は、人は様々な限界に囲まれて生きているし、自分の所有物だと思っているものは、実は自分の物ではないと教え、私達に真の生き方とは何か。自分はどんな存在なのかを考えさせる。

 さて、主は弟子達に、真に恐れなければならないものは何かを教え始めた。すると群衆の一人が主に遺産相続争いの解決を願い出た。昔も今と同じような事が。主はその願いを聞き入れなかった。主に解決する力が無かったからではない。彼が遺産の権利を取り戻しても、今彼を虜にしている不安や恐れは解消されない。財産を得さえすれば幸せになるという考えは間違いと教える為、願いを拒否した。

 そして主は、彼が抱えている問題を自分で解決させる為に、自分が何者で、どう在るべきかをこの譬え話で教えた。非常に恐ろしい譬え話。しかし私達に自分が生きているとはどういうことかを考えさせる大切な譬え話。ある金持ちの畑が豊作だった。これは彼が不正な手段で富を得たのでないことを示すが、主は彼が罪を犯したことを前提にしている。それは彼の思いが作物にだけ向き、それらにより身の安全が保たれていると考え、全てを与える神に思いが向いていないから。

 人は必ず死ぬ、いつかは分からないが、突然、思い掛けない時に死が襲う。必ず死ぬと分かっていても、死ぬ迄は生きているから、人は少しでも安心で豊かな生活をと願う。その意味ではこの金持ちも同じ。主は、人が自分の人生の見方を変えるなら、人としての本当の生き方ができると教える。安心で豊かな生活だけを目指すと花より団子になる。花は信仰、団子は生活の糧、手段。礼拝出席より仕事を優先、良い仕事に就く為に良い学校への進学を優先、その為に礼拝を犠牲にし、安定した生活の為には安定した家族が必要と家族の為に礼拝を犠牲に、時には贅沢や自分の精神の安定の為に礼拝を犠牲に。生きる為には必要で、仕方がないと礼拝を犠牲に。しかし主は「あなたが大切にしている生活とは何か」と問い掛ける。考えてみれば、誰でも思い通りの人生を歩めない。突然来るのは死だけではない。苦労や挫折、絶望も突然訪れる、自分の人生は自分のものでは なく、神のものだから。人は誰も自分の人生を大事にする。しかし、大事にすれば幸せになれるなら、皆が幸せになっている筈。大事にする仕方を間違ってはいけない。主は自分の人生を大事にしたければ、神を大事にせよ、神に対して富めと教える。

 その為に自分の現実を見よう。人は自分の心も体も含め、全て自分の思い通りには出来ない。パウロが言うように自分が欲する善は行わず、欲しない悪を行う。自分の人生を大事にできず、誤った方向に進むことも。本当に大事にしたければ、先ず、自分の弱さを認め、神に全てを委ねる者になろう。人間社会の中に生きているので人間関係は大切。でも人や物を見るのではなく、神を見上げ、神を自分の人生の中心に置き、礼拝を大事にしよう。神は私達をご自分のものとし、本当に必要なものを必要な時に与える。31節で「あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます」と主が言う通りだから。自分は掛け替えのない大切なもの。しかし自分のものではない。自分に執着すると他者との関係が見えなくなり、共に生きられなくなる。自分を神のものとし、神に全てを委ねよう、その時、自分と関わる人々と共に生きる幸いな者になれる。