メッセージ(大谷孝志師)

全ては与えられた神の恵み
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年10月18日
聖書 Ⅰコリント1:1-9「全ては与えられた神の恵み」  大谷孝志牧師

 ガラテヤ書を通しての学びを終わり、今月から第三週にコリント人への手紙第一を学びます。今日は手紙の書き出し部分を通して、私達がいる教会とはどういう所なのかをご一緒に学びたいと思います。コリント教会はパウロが第二回伝道旅行の時に滞在した時、彼の働きにより誕生しました。それで彼は3:6で「私が植えて」と言います。コリントは古代の繁栄する商業の通路上にありました。この町はギリシア本土とペロポネソス半島を結ぶくびれの位置にあり、エーゲ海とイオニア海の間の東西貿易の経路を支配する位置にありました。半島の西側の航路は危険を伴うので、アジアとイタリアの間を船で荷を運ぶ商人達はこの町を経由して荷を運んでいました。コリントは東西交易によって栄えた町だったのです。しかし、ローマ以前のコリントは性的に退廃した町と言われ、古い注解書には頽廃した町と説明したものもありますが、資料を誤解したもので、今は、パウロの時代、この町は他の港町や商業の中心地と比べて良くも悪くもない町というのが定説です。この教会はその裕福な商業の中心地の港町に建てられていた大きな教会だったのです。

 彼は当時の手紙の慣習に従いい、差出人、受取人、感謝の三要素を含む挨拶で手紙を書き出します。自分は「神の御心によりキリスト・イエスの使徒として召された」と書いたのは、彼が、自分には御心を彼らに教える為のこの手紙を書く資格を神に与えられていると知らせる為です。使徒は、派遣した人の代理人で、その人に代わって権威と法的拘束力を行使できる人です。

 次に差出人に兄弟ソステネを加えます。彼の名は他の彼の手紙にはなく、使徒18:17のコリントの会堂司と同一人物と考えられます。パウロが一年半、この町に腰を据えて福音を伝えた時、無視できなくなったユダヤ人達が一斉に反抗し、彼を法廷に連行しました。しかし彼らは地方総督に、自分達の律法に関する問題なら自分達で解決すれば良いと言われ、法廷から追い出されたのです。その鬱憤を当時の会堂司の彼に向け、打ち叩きました。ユダヤ教徒だった彼はパウロの理解者になり、パウロがエペソでこの手紙を書いた時、同労者としてエペソにいた彼の名をここに加えて、この教会の人々にこの手紙の重さを感じさせたと思われます。パウロは自分が告げ、教える事を理解させる為に様々なものを用いているので、これもその一つと考えられます。

 彼は彼らを「神の教会」と呼びます。神がご自分への奉仕に呼び出した群れという霊的事実を彼らに確認させる為です。彼らが特別だからしたのではありません。主イエスを信じる者は皆、主の十字架と復活により聖なる者、神の民とされ、混乱し、腐敗した世から区別され、主の許に呼び集められ、聖徒としてキリストの体である教会、神の教会を構成しているからです。

 しかし現実には、この教会は神の教会の姿から遠く離れていました。でも、霊的に覚醒するなら、他の教会と同じように主に与えれた使命を果たせます。彼らも神の教会だからです。その為にも「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたに」あるようにと彼らを祝福します。

 パウロはこの手紙を宛てた人々の現状を記し、彼らを祝福した後、この教会に与えられている神の恵みの故に神に感謝しています。どんな教会でも神の教会だからです。確かに、この教会に仲間割れがあり、争い事があると聞いたから彼はこの手紙を書きました。伝え聞いた彼らの現状を憂え、様々な勧めをしますが、彼は叱責していません。何故でしょうか。自分は正すべき立場の者ではないと知るからです。人の目にどう見えようとも、彼らは神の教会であり、神の支配する世界にいるのです。現状がどうであれ、彼らは神の愛の対象であり、神の恵みにより育まれているのです。彼らの現状の原因は、彼らがそれを忘れているところにあると彼は見抜いていたのです。神の教会であっても、人の群れ、弱さと愚かさを持つ人々の群れであるからです。

 彼は先ず神に感謝しています。そのような彼らでも、今もその地に建てられた教会であり続けているからです。それはただ神の恵みによるからです。彼らは「あなたがたはすべての点で、あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにおいて豊かな者とされました」と彼が言うように、神の恵みに溢れた豊かな信仰の持ち主の群れでした。それなのに、なぜ争いが起こり、分裂が生じたのでしょうか。彼らは確かに神の恵みの良い器でした。それは「キリストの証があなたがたの中で確かなものとなったからです」。彼らは、物質的だけでなく、霊的にも豊かな生活をしていました。自分達の為に主が十字架に掛かって死に、復活して今も自分達を生かし、支えている。だから今の自分達があるとの信仰に固く立ち、それを自分達の口で人々に表していたからです。主の証人として生きていたのです。確かに彼らは、主の十字架と復活の故に今の自分達があると知り、世の人々も彼らを見て、主の十字架と復活の確かさを感じ取っていました。それだけでなく、彼らは熱心に主の再臨による新しい時の到来を待ち望んでいました。しかも、この恵みに溢れた生活が最高、最上のものではないと知り、今の豊かさに溺れずに、パウロらの福音宣教により知らされた主が約束した将来に深い期待を持ち続けていたのです。それなのに、彼らの間に問題が生じたのは、主によって与えられた言葉と知識を自分達の努力と能力で獲得したものと勘違いしたからです。

 彼はそのような彼らだからこそ主が守り、最後の審判の時に責められるところのない者としてくれると言います。ですから、これは彼らを褒めているのではありません。彼らに、物質的だけでなく、霊的に豊かな信仰も含め、自分達が持つ全ては賜物、神が与えたものと気付いて欲しいと願う言葉です。

 教会の交わりの中の信仰生活も、全て神が与え、整えているものなのです。私達も「あらゆることばとあらゆる知識において、キリストにあって豊かな者にされ」ているのです。私は一人一人の言動にそれが表れているのを感じさせられたことが何度もあります。彼らが主の証人として生きているのは、その器に神に召されたからであり、彼らがイエスとの霊的交わりに入れられたからこそ、聖徒としての恵みに溢れた生活があると彼が言うように、私達もこのような自分でも、神に豊かな恵みを与えられ、聖なる者、神の器である聖徒として召されて、今を生きる者とされていると気付き感謝しましょう。