メッセージ(大谷孝志師)
神の本質の真の姿
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年10月18日
ヘブル1:1-4「神の本質の真の姿」 牧師 大谷 孝志

 ヘブル人への手紙を見ると高校の時の聖書研究同好会を思い出す。2年のクラスでの自己紹介で「もうすぐバプテスマを受け、クリスチャンになる」と言ったと知った先輩がその会への入会を勧めた。会は十人程の三年生だけだった。正式なクラブではなく、同好会。都立高校は宗教的なものはクラブになれない決まりだったから。でも、部室と顧問がいて、文化祭の活動費も出、普通のクラブと変わりなかった。文化祭後に三年生が受験の為に抜け、私と1年生の二人で、ヘブル書の聖書研究を続けた。今思うと楽しく思い出される人生の大切な時期だった。

 新約聖書には〜への手紙が14、〜の手紙が7。〜の手紙は各々の著者が書いた手紙、〜への手紙はパウロの手紙で著者名が省略されている。しかし他の13にはパウロから〜へとあるがこの手紙にはない。多くの学者がパウロ著者説に否定的。ある人が自分の幾つかの説教を纏め、後書きを付けて或る教会に送った説が有力。

 著者はこの中で名前を挙げていないが、自分達が信じる御子イエス・キリストはどんな方で、私達をどう扱い、御子イエスを信じるとはどういう事かを教える。

 著者は「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」と言う。難しい言葉だが、それが私達が信じる主イエス。福音書に記される主イエスは、心優しく、人々を深く愛している素晴らしい人との印象を受ける。しかし主イエスは、私達と同じ人ではない。「人であり神である方、目に見えない神が目に見える神として、人がそのイメージを所有できる方としてこの世に来た方」。だから主は神を父と呼ぶ。しかし神の息子であっても、人間の親子の関係と同じではない。何故なら、親の本質の真の姿が子であるような関係は、私達人間の世界にはないから。親子は似ていても全く別の人格の持ち主。だから、別の言い方をすれば、大谷孝志という人間の本質は、世で生きて生活しているこの体に表されているという事。目に見えない本質をこの体による言動が表している。では、何故、神が人である御子として世に来て、あのような苦しみを受け、十字架に掛かって死ななければならなかったのか。何故、主イエスを信じるなら救われるのか。それが今日の聖句に集約されている。そしてヨハネ福1:1-18、ピリピ2:6-11と見事に調和している。

 主イエスが復活し、万物の主である御子なる神としてこの世の全てを支配し、力有る言葉をもって、万物を保っているから、平安の内に生き、どんな苦難に直面してもパウロがロマ5:2-4で言うような生き方できる。それだけでなく、主イエスを信じる者は、霊の目で神の栄光の輝きを見ている。主の素晴らしさを知り、主を信じて良かった。キリスト者は素晴らしいと思う。何故か。目には見えないが、自分や他のキリスト者が主の栄光の霊的輝きを反射しているから。それは、太陽や黄金以上の神の栄光の輝き。御子主イエスは今も人の心を照らし続けている。私達は聖書を読み、兄弟姉妹と共に礼拝する中で、聖霊の導きにより、神の本質の真の姿を見る恵みに与っている。しかし霊の目が曇ると、自分や目の前の人の輝きが見えなくなり、その弱さや暗い面だけが目についてしまうことも。

 イザヤは60:2で「見よ、闇が地を覆っている。暗黒が諸国の民を。しかしあなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる」ことが私達にも起きていると知らせる。私達も主の栄光の輝きに照らされて歩める。私達が信じ、共にいる御子イエスは神の本質の真の姿だから。主は私達がその主の栄光の輝きを反射し、人々の為に世の光として輝くことを求めている。主の求めに応え世の光になろう。