メッセージ(大谷孝志師)
週に一度の聖なる日
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年10月25日
出エジプト20:8-11「週に一度の聖なる日」 牧師 大谷 孝志

 私達は日曜に教会に来て、主を礼拝する。何故日曜なのか。そして、何故礼拝するのか。それは日曜が週に一度の聖なる日だから。今日の個所に「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ」とある。次に「六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。」とある。神は何故、イスラエルの人々に安息日を定めたのか。安息の元の意味は、休むとか止める。人は世に生きている限り、勉強も含め様々な仕事をする。その中で疲れを感じ、労苦する。人がそれらを止め、或いは休み、解放される日が安息日。ユダヤ教は、金曜の日没から土曜の日没までを安息日とし、礼拝を守る。キリスト教は日曜日を安息日とした。週の初めの日、日曜に主が復活したから。それを感謝して日曜に礼拝を守るようになったから。ユダヤ教が安息日を世事を離れ、神を第一にする特別な日としたように、私達は日曜を、世から御前に出て、私達の神を霊と真理をもって礼拝する特別な日としている。

 主は安息日の戒めを破っているとパリサイ人、律法学者達から度々攻撃された。彼らが人々にそれ程熱心に安息日を厳守させたのは、紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚の反省から。彼らは捕囚を自分達が真の神を離れ、カナンの人々に迎合し、偶像礼拝に陥ったことへの神の裁きと知らされたから。この民の生活が、神中心、神第一になるには、十戒を含めた律法が生活の中にしっかりと根を下ろさなければと知り、その為の大切な柱の一つとして「安息日厳守」を主張したから。

 神は、人々が生活の様々な雑事に疲れて心を奪われると、心が神から離れてしまう。だから週に一度、それから解放され、生きる為にどうしても必要な事以外は何もするなと命じた。しかし人は何もしないでは生きられないから、パリサイ人達は、安息日にして善い事、してはいけない事の細かい規定を作り、人々に教えた。しかし主は、当時の人々がそれらを守ることだけに心が向き、信仰が形式的なものになっていると見抜き、人々が、愛の戒めを守るなら。それらの規定を守ることになり、それらの細かい規定から解放され、神に喜ばれる生き方が出来ると教えた。主は、確かに安息日にしてはいけない規定を破ったが、安息日を聖なる日としなかったのではない。そうではなく、主は全ての日を安息日、神を第一にし、神を礼拝して生きる日としていた。そして、私達もそうするように命じる。パウロが言うように「今は恵みの時、今は救いの日」(IIコリ6:2)なのだからと。

 礼拝は私達が品行方正な聖人君子になる為でも、御言葉を頂き信仰が高められる為のものでもない。結果的にそうなるかも知れないが、私達を世の様々な労苦、不安や恐れから解放し、平安を与えている聖なる方、私達の主なる神を礼拝する為の日。昔神が安息日を定めたのは、神の民が世の雑事から解放され、ただ神を思う時を与える為だったことをもう一度心に刻もう。昔の人以上に忙しい日々を過ごし、時間に追われる生活をしている私達。日々の生活の中で、つい神のことを忘れてしまいがちな私達が、聖なる神との霊的交わりの時を持つ大切な日、神の愛と守りを味わう恵みの日として、日曜を安息の日とせよ、と神は語り掛けている。主を信じる者、主のものとなっている自分を日々感じながら生きることは大切。しかしその事を忘れ易い私達の為に、その一週を神と共に歩めるよう、主イエスが復活した週の初めの日、日曜が聖なる日として定められている。日曜には霊と真理を持って神を礼拝し、神に喜ばれる者として一週を過ごす者となろう。