メッセージ(大谷孝志師)

真に愛し合える教会
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年11月1日
聖書 Ⅰヨハネ3:18-24「真に愛し合える教会」  大谷孝志牧師

 このヨハネの手紙一には著者名がありません。しかし1:2の「御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見た」方は、主イエス指しているので、著者は1世紀初頭から使徒ヨハネとされています。彼が子供達、愛する者達と呼び掛けている読者は、他の全ての聖書の手紙同様、キリスト者達です。彼はパウロのように自分を使徒と言っていません。しかし彼は、自分が主イエスと生活を共にしていたことを明らかにしています。

 彼は、読者に「ことばや口先だけでなく、行いと真実をもって愛しましょう」と呼び掛けています。「そうすることによって、私たちは自分が真理に属していることを知り、神の御前に心安らかにいられるから」と付け加えます。神の御前に心安らかでいられるとは素晴らしい事です。もしそうできるなら、私達は教会の中だけでなく、この世でも心安らかに生きられるからです。何故なら、神の方では私達の心の深みまで知っています。でも、人は神の御心は何かは想像するしかありません。更に言うなら、他人の心の内も読みとれないのが現実です。かろうじて言葉や表情で、相手の心の動きを推測するしかありません。自分の言動が相手にどう評価されるか、どういう結果になるか人には分からないのです。人は先の事や相手の心が分からないから不安になります。普段は気にならなくても、大きな問題に感じてしまうと、分からないままだと不安で堪らなくなり、相手の心の内を知りたいと思い、言葉や口先で相手に探りを入れようとします。正直に相手に自分の気持ちをぶつけると、相手や自分を傷つける結果になることがあるからです。人間関係とは微妙で難しいものです。しかし相手も構えてしまうので、無難な応答しか出て来ず、不安は解消しません。泥沼で藻掻くしかないのが現実だと思います。

 でも抜け出す道があります。神は人に愛する心を与えているからです。愛がその難問を解決する手段になります。人は誰でも一人では生きていけません。相手が必要です。自分が相手にとって必要な存在、相手が自分にとって必要な存在と感じられ、しかも、互いにそれを感じていると分かった時、愛によって繋がり、一つなのだと感じられるのは、例えようがないほど素晴らしいものです。人はその時、心に安らぎを感じられます。教会の良さは人と人との間にある壁がなくなり、本音で付き合え、愛し合えることにあります。

 勿論、主を信じていても、弱さを持つ罪人です。自分の言動が原因で人を傷つけることもあります。でも主を信じていると、主が共にいると信じると、その壁がなくなるのです。本音で付き合い、愛し合えるようになります。それが教会の良いところなのです。何故なら、主が共にいるので、主を信じていると、自分の生の思いをイエスへの思い、聖書の言葉、祈り等の漉し器により濾過できるからです。ヨハネは、人は本音を曝し出すことに躊躇する弱さを持つと知っています。だから全てを知る主に任せて、後の事を心配せず、安心して本音で言葉と行いを持って相手と愛し合いなさい、それが教会の交わりです。私達はそれが出来る世界に生きているのですと彼は教えています。

 とは言え、主イエスが助けるから、本音で心から相手を愛せるのだと言われても、とても難しいと私達は思ってしまいます。教会の中にいても誤解され、裏切られたような気持ちなることを経験することがあるからです。主を信じていても、自分の殻を破るのはとても難しいからです。それだけではありません。問題が生じた時、主が互いに愛し合いなさいと命じたのに、自分は相手を愛していない、キリスト者らしくないと思われたくないと思ってしまい、つい誤魔化してしまうこともあります。それに、相手に何かして上げたいと思い、真心からしても、相手の心の内が分からないので、裏目に出て、しない方が良かったと後悔することもあります。この世の中でも私達はそんな経験をします。しかし教会の交わりが世の交わりと違うのは、それでも私達は、相手を愛そうと思うし、愛せると思えるのです。義務だからと無理をするのではありません。自分が相手の為にすることが、プラスかマイナスかは分からなくても、結果を主に任せられるからです。だから相手の為に良いと思う事ができます。勿論、良い事をしているつもりでも、相手を傷つけてしまう時もあります。そうなって、例え自責の念に駆られようとも、主を信じているなら、心安らかでいられるとヨハネは教えます。どちらになったとしても、主が全ての帳尻を合わせると信じられるからです。だから主を信じることは素晴らしいのです。どうしてでしょう。神は私達の心より大きな方であり、全てを知っているからです。そう信じるから、自分がこれで良いと思う方法で、しかも安心して相手にできます。自分が良い事をしていると御前に確信していればよいからです。人は、自分の力で完全にはなれませんが、神は完全です。主はマタイ5:40で「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と言います。主に助けて頂けば私達も完全になれます。

 それでも、自分は言葉や口先だけで愛しているのではと思い、自責の念が生じるときはあります。それはやむを得ません。ですから、例え自分の心が責めたとしても、自分は神を信じ、真実をもってしている、誤魔化していないと御前に確信を持つ事が大事なのです。神を信じることです。神はその自分の行為を喜んでくれ、自分が求めるものを何でも与えると彼は教えます。

 キリストの名を信じ、キリストが命じた通りに、つまり、主が自分の命を私達に与える程に私達を愛したように、互いに愛し合うことが、真に互いに愛し合える教会を目指そうとする私達への神の命令です、と彼は教えます。そして、この命令を守る者は神の内に留まり、神もその人の内に留まると言います。互いに愛し合うことによって、それを確認できるからです。神がキリストが命じられたとおりに互いに愛し合え、と命じたのは、愛し合うことで、目に見えない信仰を確認し合える喜びを私達に与える為です。私達は、自分は本当に主を信じているか、相手も信じているのかと不安になる時があるからです。信じていると確認できる喜びを私達に与える為に、神は愛し合いなさいと命じます。そして、私達が言葉と行いで、互いに確認し合える形で愛し合い、互いに一つになれていると喜びを味わえるなら、私達の教会は更に大きく成長していきます。「行いと真実をもって愛し」合いましょう。