メッセージ(大谷孝志師)
仰ぎ見る主がいます
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年11月1日
へブル12:1-3「仰ぎ見る主がいます」 牧師 大谷 孝志

 1946年に荒川家に於いて、重井教会の沢野正幸牧師を迎えてクリスマス礼拝が捧げられ、続いて主の日毎に家庭集会が守られて現在に至るこの教会の歴史には、楽しい時だけでなく苦しい時もあったと思う。その中で、多くの教師、兄弟姉妹が世の光として歩み続けてきたから、今の向島キリスト教会がある。それはこの教会に集められ、主にある交わりを続けてきた人々が、主に目を注いでいたから。

 人生はよく航海に例えられる。時化(しけ)や凪の時もあれば、順風満帆に航海を続けられる時もある。安全に航海を続ける為に最も必要なのは、自分が今どこにいて、どこに向かっているかを知ること。だから、昔の航路は陸の形でどこにいるか分かるように、陸に沿って作られた。しかし羅針盤、六分儀が発明され、陸から離れて航海できるようになった。どこにいても自分の所在と進むべき方向を知ることができたから。生きていると、突然人生の意味や目的を見失ってしまうことがある。そんな時、自分が何の為に生きているのか、どこに向かっているのかがわかり、どこに向かって進んだら良いのかが分かると、窮地を脱することが出来、人生がもっと楽なもの、平安に満ちたものになる。この手紙の著者も、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」と言う。この教会の歴史を刻んできた先輩達が世の光、地の塩をとして働き、現在があるのも、主から目を離さなかったからであり、目を注げる主がいたから。私達も、同じように主に目を注いで歩み続けよう。何故、主に目を注ぐことが必要なのか。
 私達が目を注ぐ主イエスは、十字架に掛かって死に、復活した方だから。主に目を注ぐ時、私達は今の自分の苦しみや悲しみがほんの小さなものに見えてくる。それ程大きな苦しみ、悲しみを私達の為に味わった方、天にいて万物の主として、私達に知恵と力を与え、物事の意味を教え、信仰を導き、完成させる方だから。

 他人には平安な人生に見えても、誰にもその人にしか分からない苦しみ悩みがある。思い掛けない事件や事故に遭い、或いは病気に罹り、気が動転することも。しかし主にを注いでいると、それらに大切な意味を見いだせるのです。と言うのは、主が私達を愛し、子として訓練しているのだと分かるから。「鉄は熱いうちに打て」と言う。熱いうちに打つことで不純物をたたき出し、相反する性質を持つ二つの鉄が一つになり、折れず曲がらない日本刀に相応しい一本の鉄になるから。楽な道と苦しい道のどちらかを選べと言われたら、楽な方を選ぶ。でも主は苦しい道を選ばざるを得ないようにすることが多い。真に主に喜ばれる者にするために訓練するから。だから主を信じても苦しみがなくならないと、目を主から離してはいけない。「苦しみにあったことは、私にとって幸せ」と詩編119:71にある。苦しみの中で、主に目を注ぐのを忘れていた自分を絶えず見詰めていた主を知り、改めて主の深い愛と恵みを感じ、新しい自分に生きられるから。

 だからどんな時も、心を鎮め、祈りつつ、見えない主を信仰の目で見、目を注いでいよう。それにより、主が私の為に十字架に掛かって死に、復活し、今、私と共にいると信じ、私を受け入れている主の愛を生き生きと感じられる。私達の為だけではない。私達を通して世の人々が人生の意味を知り、イエスこそが人生の真の導き手であり、完成者と知って生きる為に、つまり、主に目を注いで生きる幸せ、素晴らしさを知る為にも大切な事。この教会に連なる私達自身が目を注げる主がいる幸せを心から感じ、喜び溢れて、世の光として信仰の灯火を受け継ぎ続ける者になろう。