メッセージ(大谷孝志師)

神のものは神に返す
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年11月8日
聖書 マルコ12:13-27「神のものは神に返す」  大谷孝志牧師

 今日の個所に「彼らは」とある人々は、主イエスが語った譬え話を聞いて、それが自分達を指していると分かって、危機感を抱いた祭司長達、律法学者達、長老達、つまり当時のユダヤの指導者達です。彼らは、群衆がイエスを尊敬していたので、むやみに捕らえたら、群衆の反感どころか、怒りを買ってしまうと分かっていました。そこで、群衆が納得する形イエスを捕らえようと、パリサイ人とヘロデ党の者を数人主の所に遣わしたのです。彼らは、ローマ皇帝に税金を納めることは律法に適っているかどうか、納めるべきか納めるべきでないかを主に尋ねています。彼らの言葉は一見好意的に見え、褒め言葉に見えます。実はそうではありません。主に、今までの生き方通りの返事をして欲しい、あなたなら出来る筈だし、そういう答えを戴かないと私達は納得できないし、人々も納得できないでしょうと迫っているのです。これは彼が仕掛けた罠なのです。主でなくともすぐに欺瞞が見抜ける程、意図が見え見えでした。と言うのは、このカエサル(ローマ皇帝)への税金の問題は、主がどちらを答えも反対派から糾弾されるのは確実だったからです。

 律法では、人頭税として二十歳以上の者で、神の民として登録された者は収入の多寡にかかわらず、半シェケル(銀5.7g)を神殿に奉納することが定められていました。しかし皇帝に税金を払うのは、皇帝に奉納金を払い、皇帝を神とするようなもので、ユダヤ人には大変評判が悪かったのです。しかしパリサイ人は統治者が命じたこととして不本意ながら協力していました。ヘロデ党は、ローマ皇帝の庇護を受け王位に就いたヘロデ王に追随していたので、当然税は納めるべきとし、納めました。ユダヤには極端な国粋主義者の熱心党と呼ばれる人々がいて、皇帝への納税を断固拒否し、その暴力的行為は別にして、民衆は彼らを自分達の代弁者と見ていたのです。そんな訳で、もし主が納めるべきと言えば、民衆の反発を買い、彼らが離反し、納めるべきでないと言えば、ローマに反抗的人物と見られてしまいます。指導者達は、どちらにしても主が窮地に立ち、抹殺できると考え、罠を仕掛けたのです。

 彼らはイエスを褒めれば、好意的人間と受け取り、隙を見せ、どちらにしろ、自分達の思い通りの答えを引き出せると考えました。しかしそれは人間の浅知恵に過ぎません。主は彼らの欺瞞を見抜き、デナリ銀貨を持って来させたのです。銀貨には、皇帝ティベリウスの神的栄誉を示す刻印と肖像が描かれていました。主はその銀貨を持って来させることにより、彼らの狙いを粉砕したのです。主は、それは誰の刻印かと尋ねました。当然、彼らはカエサルのものと答えました。すると主は「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言ったのです。主イエスは、皇帝に税を納めることは律法に適っているともいないとも言わなかったのです。更に、税を納めるべきとも納めるべきでないとも言っていません。非常に巧みな答えです。
 主は、自分の持つ金が皇帝のものだと思う者、皇帝の支配下に生きていると思う者のは皇帝が決めたとおりのものを納税すれば良いと言ったのです。

 逆に、そのお金は神のもので。神が自分に与えたものと思うなら、その一部である十分の一を神に捧げれば良いと主は答えたのです。この問題は、二者択一でどちらかにせよと言うべきものではないからです。主は、お金の所有者が自分で判断すれば良いと答え、教えたのです。この答えについて誰も攻撃できません。罠を仕掛けてきた人々はただ驚嘆するだけでした。

 今日の個所で問題になっているお金は、献金ではなく、税金です。しかしここから聖書は、礼拝でどんな思いを込めて献金しているか、更には、主に立ちするどんな思いで生活しているかと私達に問い掛けているのです。主は、「神のものは神に返しなさい」と言いました。実はこの言葉には非常な重みがあります。自分にとって、何が神のものなのかを考えることが前提になっているからです。献金で主に「あなたから預かったものの一部をお返しします」とお祈りしたとします。その時、残りのお金も神のものなのに、自分が自由に使える自分のものという思いがあるのではないでしょうか。主は、ここで、パリサイ人達の欺瞞に満ちた質問を用いて、私達にとってとても大切な事、自分のもの全てを自分のものと考えて生きるか、神のものと考えて生きるか、どちらが神に喜ばれる生き方ですかと、私達に質問しているのです。

 次にサドカイ派の人々が主の所に来て質問しました。彼らは主に対して攻撃的ではありません。彼らは復活はないと信じていました。貴族階級の彼らは、民衆が自分達への敬意を捨て、主に従っているが面白くなかったのです。それで、復活について律法が内に持つ矛盾を、主が正しく説明できなければ、民衆の敬意を取り戻せると思い、工夫を凝らした質問を投げか掛けたのです。それに対し、主は彼らが聖書も神の力も知らないので、思い違いをしているからそんな質問をしてきたのです。死人の中から復活する者は、もはや子を産み育てる必要がなくなるので。御国では結婚せず、男女の区別も無く、一人の人として生きるのですと主は教えました。主はここでも彼らの質問を用いて、人は聖書の言葉の真意を理解し、神が全知全能の力ある方だと信じて生きることが大切と教えたのです。私達が信じている神は、私達が全ては神のものと信じて、神に献げ尽くしても、しっかりと私達を受け止め、私達が安心して、喜んで日々を過ごせる為に必要なものを与える力ある方なのです。

 私達が「神のものを神に返す」生き方をするなら、神は喜んでくれます。その時、私達は「自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従う」生き方が出来ます。そしてこれがパウロはローマ12:1で言う「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きた献げ物として献げる」ことであり、これこそが私達に相応しい、私達が成すべき礼拝なのです。ヨハネ4:23で主はサマリアの女性の問いに答えて「神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」と言います。神は私達に「全てのものは神のもだから、私のものを神に返す」生き方を私達にして欲しいと願い、その生き方を私達に求めているのです。御霊の助けを求めましょう。御霊は私達の心を探り、弱い私達を助け導いてくれます。御霊に導かれ、神に立ち帰りましょう。自分は神のものと気付き、自分を神に返しましょう。それを神は一番喜ばれます。