メッセージ(大谷孝志師)
平安を与える主
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年11月8日
ヨハネ14:25-31「平安を与える主」 牧師 大谷 孝志

 この個所は14-17章の主が十字架の死を前に行った「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」で始まる告別説教の一部。

 主は約二年半弟子達と生活を共にする中で、多くの事を教えた。しかし間もなく十字架に掛かって死に、その後40日間は度々彼らに現れて神の国について教えるが、天に昇り、彼らの目には見えなくなる。今、この世に生きている人々は、主イエスを信じている人々も含めて、誰もその目で主イエスの姿を見られない。

 しかし主は、19節で「あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」と言う。

 主イエスを信じる者には、霊的にだが、主が私の内にいて、私が主の内にいることが分かる。これが分かるとどうなるのか、何か良い事があるのかと、主を信じられない世の人々は言うかも知れない。主を信じると、この世で平安に生きられる。もう少しで主イエスが目に見えなくなると、弟子達が不安になり、心を騒がせてしまうと主は知るから、心を騒がせず、平安に生きられるように、「わたしはあなたがたに平安を残す」と言う。目に見えなくても、主が私と一緒にいる、と信じられるのと信じられないのとでは、天と地ほどの違いがある。主を信じていても、悩みや苦しみ無しに生きられる訳ではない。物質的、経済的問題、人間関係から生じる問題により、不安や恐れに縛られてしまうことはある。しかし主イエスを信じていると、主に真の平安を与えられる。だから安心して生活できる。

 この平安は世が与えるものとは違うと主は言う。「衣食足りて礼節を知る」という言葉があり、世では物質的に満たされると、精神的平安が得られると考える。しかし「人にはどれだけの土地がいるか」というトルストイの短編小説にもあるように物質的欲望には際限がない。人間関係を平安に保つには、主を信じていない世の人々も、お金させ有れば幸せなのではない、心と心が結ばれることが大事だということは分かっている。とは言え、人の心は変わり易い。ちょっとした事がきっかけで掌を返したような仕打ちに遭うことが。正に「諸行無常」なのだ。しかし聖書は「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わる事がない」と教える。物質的に恵まれ、良好な人間関係でも、裏に不安が付き纏うのが現実。しかし主がいつも共にいて、必要なものを知り、必要な時に与えると信じるなら、現実に左右されず、現実を今の自分にとって最善と受け止め、平安でいられる。すると、今意味ある人生を過ごしているとの充足感が持て、将来についても安心していられる。だが、主は平安を世が与えるのと同じようには与えないと言う。

 主が「怯んではならない」と言うのは、病気や失敗の苦しみ悩み、不安や恐れのない世界に生きるのではないから。しかし私達は「たとえ、死の影の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたが、ともにおられるからです(詩編23:4)」と言える。それでも壁に突き当たる事も。しかし、私達はそれを主が必要なものとして与えたと信じられる。主が与える平安は前向きに立ち向かう生き方の中で経験する平安。パウロもロマ5:3-5で「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。…この希望は失望に終わらない」と言う。苦難をも喜び、何者にも負けない平安を主は私達に備えている。