メッセージ(大谷孝志師)

問題解決に必要なもの
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年11月15日
聖書 Ⅰコリント1:10-25「問題解決に必要なもの」  大谷孝志牧師

 パウロがコリント教会にこの手紙を書いたのは、11節にあるように、クロエ家の人から争い事があると知らされたからです。彼らに解決方法を示し、神に喜ばれる教会としての歩みを取り戻させる為にこの手紙を書きました。

 冒頭で彼は、自分は「神の御心によりキリスト・イエスの使徒として召された」者であると言います。使徒は、誕生直後の諸教会の人々に、主が自分の代理人としての権威与えた者と認められていたからです。主は、何故使徒パウロを遣わしたのでしょう。この教会が、外面は豊かな大教会でも、内面に多くの問題を抱えていたからです。彼はその問題解決の務めを果たす為に、先ず彼らに主イエス・キリストの名によってお願いしています。相手にこうして欲しいと思うなら、お願いする姿勢で接することです。勿論、判断を相手に任せるのではありません。私と相手にとっての主であるイエス・キリストの御心を伝えているとの思いでお願いしましょう。主が、互いの主であると伝え、自分達を互いに結びつける主を間に置くことが大事だからです。

 しかし、今彼らが抱えている問題が解決される為には、彼ら自身が変わる必要があり、それには、皆が語ることを一つにし、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致することが必要でした。そのままでいたら、自分達の争いによって出来た交わりのひび割れが、キリストの体である教会という神の器に入ったひびになり、そこから神の恵みが漏れ出し続けてしまうからです。

 彼は彼らの争いの原因は分派にあると言います。教会はキリストの体です。ですから、キリストに付いていればよいのに、自分達は誰それに付くと言うから、ひびが入ってしまうのです。しかし彼が例の一つに挙げた「キリストに」つくには諸説があります。その中で、キリストを引き合いに出して自分の信仰の正当性を主張するのが分派活動になる説が有力です。そして彼は、判り易いように自分を例に挙げて、人に付くことで自分達を他の人々から差別化しようとするのは間違いだと教えます。それは他人の知恵と力に頼って、自分を優位に立たせようとすることであり、主がご自分の十字架の死によって、人に得させようとした恵みを捨て、主の死を空しくすることになるからです。彼らが主の十字架の死の意味が分かっていないから争いが生じていると教えたのです。彼も言葉によって福音を伝えました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と。しかしこの言葉が人を救ったのではありません。私達も主イエスを信じて生きる素晴らしさを言葉で伝えます。しかし人の言葉によって相手救われるのではありません。言葉と共に働く神の力が人を救うのです。神が全ての全てだからです。

 18節の「十字架の言葉」は、十字架上で主が語った言葉ではありません。私達が使っている「十字架」という言葉なのです。つまり、この十字架という言葉によって主なる神の御心、御計画が表されているのです。この教会に起きた争いは、主イエスが自分達の為に十字架に掛かって死んだことの意味と重さを忘れ、主の十字架を空しいものにしているから起きていたのです。

 だからパウロは、ただ十字架のキリストを見上げよと勧めるのです。この勧めは私達にとっても大切な勧めです。彼らの内に十字架への意識が薄くなっていたのは、十字架に付けられたキリストという残酷な姿より、神の右にいるキリストの方が分かり易いと考えたからです。つまり、福音をより簡単なものにした方が、人々が信じ、救われ易いと考えたのです。その結果、彼らは、主との霊的交わりによって真理を示して頂こうとする世の人に分かりにくい方法より、人の知恵と判断によって獲得した知識、論法を用いて伝道する方が教会が成長し、神が喜ぶと考えたのです。それで、あの人の考え方や方法の方が良い、いやこの人が、この人がと分派が出来てしまったのです。

 パウロはそのような彼らに、イザヤ29:14を引用し、それは御心ではないと言います。人は神の力と知恵を簡単に知ることはできません。と言うより不可能です。信じることが求められるのです。信じる時、自分が今まで獲得してきた知恵と知識を捨てることを求められます。言葉を換えると自分を捨てることを求められるのです。神は何故、自分を捨てることを求めるのでしょう。人がこの世ではなく、神の世界に生きることを求めるからです。何故なら、自分の知恵に頼ると、自我が表面に出てしまい、互いに自分の信仰、と言うより確信の正当性を主張し合うことになるからです。すると、一つの体であるべき教会の中に分派が生じ、争いが生じる結果になってしまいます。だからパウロは「神は、宣教のことばの愚かさを通して。信じる者を救うことにされた」のだと言い、自分を捨て、神にのみ頼れと教えているのです。

 さて、十字架に付けられたキリストを救い主信じることは、木に掛けられた者を神に呪われた者としたユダヤ人にとって、躓き以外のなにものでもありませんでした。そして、犯罪者を救い主として仰ぐことは、異邦人には愚かなことにしか思えなかったのです。しかし神は、十字架に付けられたキリストを救い主として仰ぎ、信じることを求めるのです。十字架の主を心に描く時、不思議としか言いようのない事が起きます。そのようにしてまで罪の中に生きる自分を救おうとしている主の深い愛と慈しみが心に響くからです。ただ御前にひれ伏す以外にない自分を悟るという不思議な事が起きるのです。万物の創造者、支配者でありながら、御子を十字架に付けて殺すという人には愚かにしか見えない事をした神、人の想像を遙かに超えた神がいる、目に見えないけれども確かにいる、と信じるしかなくなるのです。世の人は、人の信仰に任せるしかない神かと弱ささえ感じるかもしれません。しかし、その神こそが、人よりも賢く、人よりも強い神なのです。神は人をこの世の知恵や力に依ってではなく、人の内に住まわせた聖霊に依って生きる者としたのです。人がこの世に生きる限り、肉の欲望、人に意思に左右され「五里霧中」「暗中模索」の中で、不安や恐れの虜になってしまいます。十字架の主を見上げれば良いのです。人は主にあって平安を得られます。苦難はあっても失望せず勇気が出ます。主が既に世に勝っているからです。「一人一人が、十字架の主を仰ぐ信仰に立ちなさい、生じた争いが解決され、教会が分裂のない一つのキリストの体となれます」とパウロはこの手紙で教えています。