メッセージ(大谷孝志師)
信仰を喜んでますか
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年11月15日
ローマ7:14-25「信仰を喜んでますか」 牧師 大谷 孝志

 パウロは自分のしている事が分からないと言う。私達も自分の思いと行為が一致しているかと考えると、やはりそうでは無い。勿論、いつも良い事をしたい、人に喜ばれる者になりたいとは思う。しかし現実には、したくない事をしている自分、したいと思ってもできない自分に気付くことが多い。それが私達人間。

 聖書はそんな人間について何と言っているか。パウロは律法について語っているが、神は何故、イスラエルの民に律法を与え、守るように命じたのだろうか。人は生きる為には相手が必要なように、神が神である為には、全く別人格の持ち主である人という相手が必要。だから人を造り、人に女という相手を造った。男と女もまた別人格同士だった。神はご自分が創造した人に、善も悪も自由に選択して行える自由を与えた。神は、神である為に、人が自分の意思で神を神として崇め、礼拝する者となることを望んだから。しかし、女は蛇に誘惑され、神が食べてはならないと命じた木の実を食べてしまった。それが正しいかどうかより、自分がしたいかどうかで、するかしないかを決めてしまった。でも自分がしたいと思う事が正しくないと分かっていた彼女は、相手を誘い、自分と同じ事をさせて、自分が悪い事をしているという思いを軽くしようとした。男も女に誘われるとしたいと思っていた事だからしてしまう。そして神に注意されると、女のせいにして責任逃れをしようとした。神は自分の意思で神の相手となり、共に生きる人を造り、そのままの人でいて欲しかった。神の思いは数千年経った今も同じ。神は人が私とあなたという関係で、神の相手として共に生きることを望んでいる。

 神は良い環境を与え、その中で自由に神と共に生きられるようにしたが、彼らは神の命令に背き追放された。しかしエデンの園の外でも、神は人に働き掛け続けたが、人は神の望みを叶えられない。神がいることは知っていても、自分の思いを優先させ、自分さえ良ければ良いと考えて行動した。そして、主イエスを信じて救われる前の私達も同じだった。パウロも主に出会い、救われ、主の御業を行い続けていた。しかし、彼は自分が神のものでありながら、神のものになりきれないでいる自分を認め、告白している。自分がしたいと願うことをせず、自分が憎んでいること行っている。したいと願う善を行わず、したくない悪を行っているから。彼は自分を本当に惨めな人間と告白する。人はそのような者として、罪人としてこの世に生きている。世の終わりが来て、朽ちない霊の体に変えられない限り、罪人としてこの世で葛藤し続ける。しかし彼のように、自分は善を行いたいと願っていることをしっかりと認めることが大切。それは聖霊が内に住む、内なる人になっていると認めることだから。彼は自分が神のものとされ、神を礼拝し、神を第一として生きることを喜んでいる。しかしその自分を神から引き離そうとして、悪の力が自分に戦いを挑み、したいと願う善を行わせず、したくない悪を行わせていると言う。彼は、自分は聖霊が内に住む内なる人とされていることを認め、その自分が罪の奴隷であり、自由を奪われた惨めな者と認めている。自分は死んでいるから、生き生きと神の御前に生きる者となりたいと言う。だからこそ、主イエス・キリストが十字架に掛かって死に、罪人である自分を、神の恵みと平安を頂いて生きる者としたと感謝し、喜んでいる。私達も罪人。彼のように罪人であることに押し潰されず、主を信じ救われれた者として、信仰を喜んで生きよう。罪人であっても、神に喜ばれる生き方ができる者となれるのだから。