メッセージ(大谷孝志師)

手を差し伸べる神
向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2020年11月22日
聖書 エレミヤ2:1-25「手を差し伸べる神」  大谷孝志牧師

 預言者エレミヤは、主イエスが生まれる遙か昔、紀元前7世紀後半から6世紀前半に掛けて活動した人です。神はイスラエルの人々をご自分の民として選び、守り育てていました。しかしソロモン王の死後、イスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国に分かれてしまいました。エレミヤの時代、北王国はアッシリアの侵攻により国家でなくなり、多くの民は他国へ移住させられました。南王国はその侵略を逃れましたが、強大なアッシリアやエジプト、バビロンの脅威に脅え続けていました。主なる神は窮地に陥っているそのイスラエルを救い出す為に、エレミヤを遣わして主の言葉を告げさせたのです。

 主は、彼らが窮地に陥っているのは、彼らに原因があり、主が彼らを捨てたのではなく、彼らが主を捨て、他の神々に仕え、偶像を拝んだので彼らに裁きを下した結果と告げさせました。主は、彼に御心を告げさせたのです。

 「若い頃」とは神が民をエジプトから導き出し、シナイ山でモーセを通して律法を与え、荒野を彷徨した頃のことです。出エジプト記は、この三度の出来事の中で、民の不信と神の裁きが繰り返されたと記します。しかし、主は民を滅ぼし尽くしませんでした。神はご自分が創造し、選んだ民の現実をそのままで受け入れ、民も自分達をそのまま受け入れる主に従順を心掛けていたからです。そこには、相互の愛と真実により支えられた主と民との密接な関係という私達と主イエスとの関係のひな形があったのです。そして主が十字架の死により死と罪を打ち破り、神が支配する世界、教会に導き入れたように、民を脅かす敵を打ち破り、民を約束の地カナンに導き入れたのです。

 しかしカナンに定住した神の民は、自分達の為に驚くべき御業をした神から遠く離れ、その地の偶像バアルを神とし、自分達を空しいものにしてしまったのです。それは神が許せる事ではなく、正すべき事でした。それで「私はあなたがたと、あなたがたの子孫と争う」と神は彼に宣言させたのです。神が旧約聖書を聖書として私達に与えている理由と目的がここにあります。神はこのご自身と民との関係から、私達に神と自分達の関係を見つめ直すことを求めているのです。神は私達を創造し、この世に生きる者とし、悪い者から守り、愛し育んでいます。神は私達に良心を与え、善悪を識別する知恵も与えました。そして教会の存在を友人やメディアを用いて知らせ、聞いた福音を悟らせ、教会に導き入れたのです。そして私達は聖霊の導きにより、主イエスを信じる者、求める者となり、今ここに招かれ、集っているのです。 私はここに喜びを持って立っています。皆様も喜んで主を礼拝しています。神が一方的に私達を愛し、恵みと平安を与えて下さっているからです。しかし、この世に生きているので、旧約時代の神の民のように、神から離れ、空しいこの世のものが神より大切になり、訳の分からない不安や恐れに囚われてしまうことはないでしょうか。御子を与える程に私達を愛した神はすぐ近くに確かにいて「心を私に向け、私が与えた恵みを数えてみよ」と語り掛けています。今、静かに、謙虚に神に心を向け直し、神に立ち帰りましょう。

 神は21節で「私はイスラエルを良い実を結ぶ純種の良い葡萄として植えたのに、どうしてか、質の悪い雑種の葡萄に変わってしまった」と言います。神はイスラエルを約束の地カナンに導き入れ、神に喜ばれる民として生きるよう全てを整えたのです。この事を、神は純種の良い葡萄として植えたと表現しています。何故、彼らは変わったのでしょう。そこに元々住んでいた人々が信じるバアルの神々に従ったからです。しかし、彼らは神に「私は汚れていない、バアルの神々に従わなかった」と言います。同じ葡萄でも質の悪い葡萄になってしまったのです。主イエスを信じて救われると、神の子となり、永遠の命を頂けます。古い自分を脱ぎ捨て、主に象った新しい人を着て、この世に生きながら、神の国に生きる者とされるからです。しかし信仰が変質しやすい弱さを誰もが持っています。昔、教会の役員をしていた人が、厄年を迎え、神社で厄払いをしました。また、寺や神社の行事に行く為に礼拝を休む人がいる教会もありました。それでも、地域の習慣、風習に従っているだけで、自分は汚れていない、偶像礼拝をしていないと思っているから。次の週の礼拝に来ました。この世に生きている限り、仕方がない事、神に許されると考えるからです。神は、偶像礼拝をしながら、自分達の惨めな姿に気付かず、自分達は神の民と言う彼らに、周囲の強大国に脅え、窮地に立っているのは、自分達を守り導き、自分達の神として必要な助けを与え続けた神にではなく、他の神々に従ったからだ、とエレミヤに告げさせたのです。

 彼らは自分達の罪に気付けないのは、自分で自らの状況を判断して、良い方に解釈していたからです。しかし、それはとんでもない見当違いでした。神は、彼らは訳も分からず、むやみに暴れ回っているだけと言います。彼らはそれに気付かず、少しでも良い兆候を見出すと、それに期待し、安心してしまいます。何故でしょう。彼らは闇の中にいるからです。だから自分達が闇の中にいるのに気付けないのです。だから神は彼を遣わしました。自分達の神を忘れ、背くその彼らを愛するからです。しかしイスラエルは、彼の言葉を聞き入れず、無視し、処罰します。そして、神はバビロンの王ネブカドネッツァルを用いて捕囚として民をバビロンへ連行します。民はそこで、神に立ち帰り、自分達の罪が原因と認め、御旨を知る為に聖書を編纂します。聖書を正しく理解し、神の掟を守り、神に喜ばれる者となるよう律法学者達が民衆を教え始めました。しかし民は誘惑に負け、形だけの信仰に陥ります。

 神は、このイスラエルの歴史に自分の姿を見よと、旧約聖書を通して私達に語り掛けています。私達もこの世に生きていながら、神が支配し、神が全ての全てである神の国、教会に生きています。主イエスは、荒野で悪魔の試みを受けました。主はこの試みを撥ね返し、御言葉によって生きる事、神を試さない事、神にのみ仕える事が神を信じる者の正しい生き方と教えました。主は私達がその道を歩めるようにする為に、十字架に掛かって死に、私達の心を闇から光に変え、神に心を向けられるようにしているのです。主はこの世に生きる者、存在するもの全ての主です。世に生きる私達は、共にいるこの主に頼り、ただ主を見上げて生きればよいと聖書は私達に教えています。