メッセージ(大谷孝志師)
光の主を映す鏡に
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2020年11月29日
ヨハネ1:6-13「光の主を映す鏡に」 牧師 大谷 孝志

 今日から主の御降誕を祝うクリスマスを待ち望むアドベント・待降節に入りました。私達は光の中を歩いていると思える人生と、暗い道を歩いているとしか思えない人生とどちらが良いでしょうか。好き好んで暗い人生を歩んでいる人は少ないと思います。誰でも、暗くどんよりした雰囲気の人より、明るく輝くような雰囲気の人といる方がよいと思うのではないでしょうか。私達が信じる神は、誰でも光の中を歩めるようにする為に、主イエスをこの世に誕生させて下さいました。

 今日の箇所に「すべての人を照らすその真の光が、世に来ようとしていた」とあります。これは主イエスのことです。私は子供の頃、両親と食前に主の祈りをしていました。西独から来た女性宣教師の家庭集会に出席していたに母が、家族に実行させたからです。主が私達家族を真の光で照らしていたのですが、両親も私も気付きませんでした。その後暫くの間、キリスト教から離れていました。しかし高校生になると母の勧めもあって柏伝道所に行き始めました。自分も行きたいと思ったからです。何故行きたいと思ったかと言うと、伝道所の人達がまじめに主イエスを信じているからです。初めて出た教会の燭火礼拝で、彼らの顔の輝きに、そして年末祈祷会で祈る彼らの姿に衝撃を受けました。幼い頃は、母が主の光を反射して、主は私を照らしていたのですが、気付きませんでした。しかし母はキリスト者になっていなかったけれど、伝道所の人々が反射していた主の光に照らされ、私に行くことを勧め、私も礼拝、祈祷会に出席して、普段は気軽に付き合っていた人々が反射していた主の光に照らされ、人生が大きく変わりました。

 夜、月が輝きますが、月は光ではありません。闇の宇宙の中で太陽の光を反射して光る鏡です。月を通して太陽の光が夜の地上に輝いてるのです。主は、全ての人を照らす真の光なのですが、懐中電灯の光のようなものです。その光は周囲に拡散せずに、直進し、反射物がないと闇に消えてしまいます。主の光も反射物がないと闇に消えてしまいます。誰かが鏡となり、主の光を反射するなら相手は主の光に照らされることができます。バプテスマのヨハネの言動を見た人々は、彼は光と思う程に素晴らしかったようです。しかし、彼は光ではありませんでした。人としての限界を持っていました。主がどんな方かを知らせることは出来ても、人を照らすことは出来ません。ですから、真の光として主イエスが世に来たのです。主が弟子達を照らしたので、彼らは鏡となれました。主が逮捕されると蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、仲間だと言われて誓ってまで否定したペトロを筆頭とする弟子達ですが、彼らは主の光を反射することで主の証人となりましでも何故彼は鏡になれたのでしょう。主の十字架と復活の主の光に清められ、聖霊が内に住む神の宮とされ、真の光である主の栄光を映す鏡となれたからです。

 主は全ての人に光が必要だから、真の光として世に来ました。しかし、殆どの世の人々は主に背を向けたままです。私達が鏡となり、主の光を反射すると共に、主を映し出す必要がある。月のように何もなくても私達は、闇にいる人々を照らす鏡になれます。先輩キリスト者も私達を照らす鏡となりました。主がして下さるから、主が救い主と信じるそれだけで良いのです。主は私達を、世の人を救う為の鏡に用いてくださいます。しっかりと自分自身が主の光に照らされましょう。主の姿を映し出すことができます。人々が自分も光の世界にいると知り、この世で喜んで生きられるよう、今闇の中にいる人々を照らす鏡にして戴きましょう。

 神はヨハネを主イエスの前に遣わしました。主が世の光であることを人々に知らせる為です。主は自分の民の所に来たのです。でも、主の民である世の人々は主を受け入れなかったのです。最後に、人々はイエスを十字架に付けろと叫び、殺してしまいました。しかし世に来たイエスを見て、主の弟子となった者達がいました。ヨハネの二人の弟子です。彼らといた時、イエスが歩いてくるのを見たヨハネが「見よ、神の子羊」と言いました。それを聞いた彼らは、イエスに付いて行き、主の弟子となったのです。彼が証しした主イエスを受け入れたのです。二人が主を信じる者となるには、ヨハネの証が必要でした。彼は光でなかったけれど、彼らを照らせたのです。彼が主を映し、主が発していた霊の光を反射する鏡となったからです。この霊の光は全ての人を照らす真の光なのですが、世の人々には見えません。私も教会に来る前は見えませんでした。世の人々には、主が自分の人生を照らす光だと分かりません。ですから教会に行こう、礼拝に出てみようとは思いません。その霊の光を反射し、人々を照らす私達という鏡が必要なのです。復活した主は弟子達に言いました。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」と。私達も光ではありません、しかし、私達が主イエスにしっかりと心と身体を向けるなら、主が私達という鏡に映ります。その主は霊の光を発しているので、その光に照らされて、漠然とですが、主イエスの存在を感じ取れるのです。主がこの世の主だと人々に分かるのです。

 ヨハネの弟子達にヨハネという主の証人が必要だったように、世の人々には、私達という主の証人が必要なのです。人々は私という人間の姿ではなく、私という鏡を見ます。そして鏡に映った「世の罪を取り除く神の子羊」としての主イエスを知るのです。その時、その人の人生が闇で覆われたものから光で満ちたものに変わります。主は何故私達を鏡として用いるのでしょう。この世に生きる全ての人に自分を照らす霊の光が必要だからです。この霊の光、真の光は、人々が知るこの世の光とは全く違います。自分の人生、心を照らす光です。自分が照らされなければ分からない光なのです。世の人々が霊の光、真の光に照らされる為に、私達は何をしたら良いのでしょうか。自分が主イエスにしっかりと心と身体を向けて、主イエスに照らされれば良いのです。私自身は、先輩キリスト者から光を感じ、主イエスを信じる者になりたいと思いました。それ迄経験したことのない光を感じたからです。彼らも光ではありませんでした。良い所も悪い所もある普通の人間でした。しかし彼らが主イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、信じ、しかりと主イエスに心と身体を向けて生きていたのです。そして、彼らを通して主の光に照らされ、私は変えられました。神の子どもとされ、人生を喜んでこの世に生きています。主イエスを信じて生きられる素晴らしさを味わっています。私達は欠け易い土の器に過ぎません。しかし同じ土で出来た月が太陽の光を反射して、私達を照らすように、私達が土の器であっても、主イエスという霊の光、真の光を反射出来るのです。人々がその主の光に照らされるなら、私達が今感じているこの素晴らしさを人々に味わって貰えるのです。主は真の光として今も世にいて、全ての人を照らしています。世の人々に主が必要であることを主が知るからです。クリスマスまでのこの待降節の間に、人生を明るく照らす主に私達自身が照らされ、主と共に生きる喜びを人々に知ってもらいましょう。